代々木上原
ひとりじゃない
自転車で美術館に行くのが、萌子のよくある休日の過ごし方だ。今日も自転車で神宮前の美術館に行き、海外アーティストの企画展を観て帰る途中。井の頭通りを西へ走っていた。代々木上原という街は萌子にとって、自転車であちこちの好きな美術館に行けるベストな拠点だった。この街自体に派手さがないのも、暮らすにはちょうどいい。人気のドーナツ屋さんやカフェもいいけれど、ちょっと古びた街中華や定食屋さんが心地いい。二十代後半になり、この街に住んで六年目になる萌子はそう感じていた。井の頭通りから南に少し入ったところのコーヒー豆店で豆を買ってから、一人暮らしのマンションに帰った。
ウェブデザイナーとして制作会社で働いて五年が経ったところで、萌子は会社を辞めてフリーランスになった。その少し前、萌子にとっては大きめの失恋をして、環境を一新したい気持ちもあった。でも、それよりも、自立への憧れのようなものが萌子の胸の内に湧いていた。そのくらいの経験年数で独立して、やっていけるの? しかもコロナ下だよ。会社の同僚や先輩、実家の家族からは心配された。たくさん稼げなくていい、自分が生活していくくらいは大丈夫と言って、萌子は本当に会社を辞めた。何も根拠はなかったが、なんとかなる自信は不思議とあった。デザインの仕事でお金が足りなければ、他の仕事をしたっていい。そのくらいの気持ちだった。
結果的に、この一年、萌子はなんとかなった。自分の実績集を見てもらいに行った大学の先輩でもある女性ディレクターが、萌子に仕事を依頼してくれたのだった。大手企業のウェブサイト制作を立て続けに二件、手伝わせてもらうことになり、萌子は自分の部屋を仕事場にしてプロジェクトに加わった。リモートでの作業が中心だったが、ビジネスチャットで頻繁にやり取りが進むまっただ中に入ると、一人で働くさびしさのようなものはなかった。ただただ、クライアントの期待に応えるデザインを出していくことで気持ちはいっぱいだった。大きなプロジェクトは納品までに時間がかかり、フィーが支払われるまでは時間がかかるが、独立したての萌子を気づかって、先輩が先に萌子に一部の支払いをしてくれたのも有り難かった。通帳に初めて入金が記帳されたのを見たときは、萌子はホッとしてATMの前で泣いた。
さっき買ってきたコーヒー豆を挽きながら、萌子は日曜日の夕方四時からのオンラインミーティングに備えて、メールで届いている資料に目を通した。会社員ではなくなってから、土日にも必要があればミーティングを入れるのが普通になった。むしろ、今、萌子が参加しているウェブサイト制作チームは、クライアントとのやり取りが激しくなる月曜日に備えて、週明けからの進め方を日曜に軽く確認するのが最近の習慣になっていた。コーヒーカップを片手に、オンライン会議アプリを立ち上げてミーティングルームに入ると、メンバーはまだ揃っておらず、パソコンの画面に一人の女性だけが映った。萌子に仕事を依頼してくれた田中智子だった。
「いつも日曜日にごめんね」
「大丈夫です。さっきまで美術館に行ってました」
「この前、観たいって言ってたやつ?」
「そうです。すごくよかったですよ」
「へえ、いいな」
「智子さんこそ家族との時間は大丈夫なんですか」
「今日は娘のピアノの発表会に行ってきた」
「へえ、いいですね。どうでした?」
「それが、親バカだから感動して泣いちゃってさあ」
「へえ、すごい」
画面に映る智子の後ろのほうから小学生の女の子が顔を出して、萌子に可愛らしくあいさつした。今度、うちに遊びに来てと言われて、萌子は快く約束した。そうこうしているうちに遅れていたメンバーが二人、加わって、雑談はすぐにミーティングに移行した。一人として同じ会社に所属しているわけではない、それぞれがフリーの女性メンバーで構成されたチームのミーティングは、進め方のプロフェッショナルさに加え、親しみと気づかいがあって、萌子は大人の会話に入っている感じがして嬉しかった。
「萌子の仕事にもいつも助けられているよ」
「あ、もう独立一年だよね。おめでとう。プロジェクトが一段落したら打ち上げしたいね」
「萌子さんの独立一周年祝いも兼ねよう。まん防も終わったし」
「本当にこのチームに入れていただいて、感謝しています」
ミーティングの終わり際の先輩たちの言葉が、新米フリーランスに温かく沁みた。大丈夫、ひとりひとりだけど、ひとりじゃないものだから。最初にあいさつに行ったときに智子が言った言葉の意味が、萌子は少しわかった気がした。
夕ご飯は昨日つくりおきした肉じゃがにすることにして、小さな缶ビールだけ買いに行こうと、萌子は夕暮れの街に歩いて出た。井の頭通りを渡りながら、モスクの塔の屋根のほうに大きな夕陽が見えたとき、自分で生きている小さな実感が萌子の中に湧いた。明かりがつき始めた小さな商店が並ぶ上原の街も、ひとりじゃないからねと言ってくれているように萌子は感じた。後に国内外でデザインの賞を取り、有名デザイナーになっていく女性の、地道な独立一歩目を夕陽が照らしていた。