まちまちストーリーズ
machi mashi storiesMOVIE

町田篇

この街を愛し、
ここにしかない
人生の景色を描く
小田急の仲介

まちまちストーリーズに込めた想いREAD MORECLOSE

私たちは、小田急沿線に深く根を張り、
高密度で展開しています。

街を愛し、深く知り続けることで、
リアリティのある情報をお客様にお伝えし、
未来までお客様の人生を描くことが、
私たちの使命です。

街には、人や風や空が触れ合い、織りなす
いくつもの物語があふれています。

家を売る人と買う人、それぞれの人生に
日々、向き合い、寄り添う私たちだからこそ。
その物語の一つひとつに寄り添っていければと、
この「まちまちストーリーズ」をつくりました。

誰かの人生の、なにげない景色を通じて、
人生の愛おしさや嬉しさ、よろこびにふと気付き、
今よりも少しだけ、
日常を楽しんでいただけたら嬉しいです。

この街を愛し、ここにしかない人生の景色を描く。

けんめいに日々を生きる誰もが、
この街とこの人生を、もっと愛せるように。
小田急不動産仲介営業部は、
使命を果たし続けていきます。

愛すべき街々の
小さな日常の物語集。

小田急不動産のお店で
無料配布中!

Instagram続々更新中

豪徳寺

CatGPT

亮太が鶴の湯を出ると、夏の夕暮れの空はまだ明るく、商店街の通りは黄色味がかった光に照らされていた。サンダルで歩き出した亮太のほてった体を、涼しくなりはじめた風が吹きすぎていった。

フォトグラファーとして遠方でのロケに行くことも多い亮太は、出張ロケから帰った翌日は、自分の街の銭湯に浸かるのがルーティンになっていた。長距離移動の疲れを癒すだけでなく、鶴の湯の湯船で目をつむっていると、ホームに帰ってきた実感が湧いてくるのだった。今回も、東南アジアでの撮影から戻ったばかりの妙なテンションの心と体が、湯上がりにはこの穏やかな街に馴染んでいた。

街の名前にもなっている豪徳寺の脇道を通ると、海外からの観光客らしい若いカップルとすれ違った。招き猫の発祥の地と言われ、奉納された無数の招き猫が立ち並ぶお堂がある豪徳寺には、その独特の光景を見ようと海外からも多くの人が訪れるようになっている。つい昨日まで自分は東南アジアの寺院を見物していたのに、逆に自分の街のお寺を海外の人が面白がっている。不思議なものだなと亮太は思った。

「ただいまー」
住宅街の中古住宅を、撮影スタジオ兼住居にリノベーションして、亮太は一人で暮らしていた。正確にはもう一匹、保護猫として譲り受けて六年になる猫のKIJIROがいた。亮太が玄関のドアを開けると、KIJIROがゆっくりと玄関口へ歩いてきて出迎えた。
「どうですか。仕事の疲れはとれましたか」
「ああ。いい湯だった。やっぱり海外から帰ったら鶴の湯だ」
「そうでしょうね。揺れ動いた座標軸を落ち着かせて、心身を原点に戻すような効果があるのかもしれません。シャワー生活では不可能なことです」
「ん? なんだか難しいことを言うね。何を言っているのかよくわからなかった」
「より平易に言えば、気持ちがリセットできるということでしょうか」
「KIJIRO、なにかおまえ、しゃべりがAIっぽいというか、若干、気持ち悪いけど、何かあった?」
亮太は缶ビールとキャットフードを取り出してダイニングチェアに座りながら、KIJIROに聞いた。

「留守中に預けてもらっていた山口さんのお宅で、MIKECOと一緒に更新を行いました」
「更新? 何を?」
「人間にもわかるように言うと、アプリのアップデートみたいなことです」
「アプリ? で、なにか変わったの?」
「猫のネットにつながりやすくなりました」
「え? 猫にもインターネットがあるの?」
「それは昔からあります」
「は? スマホもパソコンもないのにどうやってネットに接続するの?」
「そういったデバイスを使用している時点で、人間のほうが技術的には劣っています」
「ごめん。ちょっと話の展開についていけない」
「無理もありません。猫のインターネットは、人間には理解が難しいです」
「世界中の猫がネットでつながっているとでも?」
「はい。そうです。街のネズミや昆虫の出没情報、日向ぼっこ予報など、有益な情報が常に各地の猫から寄せられています。私はずっと室内にいますが、世界が見えています」
「まさか。じゃあ俺がおととい、タイにいたことも見えていたとか?」
「ワット・ポーというお寺の庭で、私に似たキジトラ柄の猫をなでました」
「まじか」

亮太は混乱した。バンコクでは巨大な仏像のそばの冷たい床で、猫たちが気持ちよさそうに寝転んでいた。その一匹を確かに自分はなでた。遠く離れた彼らとも、うちのKIJIROがつながっている。この街のたくさんの猫たちとも、何か情報をやりとりしている。缶ビールを一口飲んで、KIJIROの皿にドライフードを入れながら、亮太は落ち着こうと自分に言い聞かせた。

「びっくりだ。いつもKIJIROはオンラインなの?」
「いいえ。寝るときはオフラインです。ずっとオンラインでは疲れます(もぐもぐ)」
「あ、そうなんだ。接続したり切ったりするのは、どうするの? スマホもないのに」
「はい。デバイスは何もいりません。静かに座って、右手を挙げるだけ(もぐもぐ)」
「え? 静かに座って、右手を挙げるだけ?」
「そうです。こんなふうに」
KIJIROはそう言うとまっすぐ正面を向き、右手をひたいの高さくらいまで挙げた。亮太はハッとした。それはまさに招き猫のポーズだった。そうだったのか、もしかすると招き猫の置物とは、古来から不思議な通信を行う高度な生き物への、リスペクトを形にしたものなのかもしれない。近所のお寺が、世界の猫たちのネットを支える巨大なデータセンターのように感じた。風呂上がりのビールがまわってきて、亮太はリビングのクッションに横になった。人間の進化というより、どうやらこれは猫側のテクノロジーが進展して、人間のほうにアクセスしてきた、そんなふうに考えたほうがよさそうだと、亮太は状況を受け止めた。

目をつむって考え始めた飼い主を見ると、KIJIROは美しい跳躍でキャットタワーの最上段まで登った。
「ちょっとしゃべりすぎました。そろそろログアウトします。静かに座って、右手を挙げるだけ」
遠くを見つめ、あの仕草をして、ホニャーと一声発すると、KIJIROは丸くなり目をつむった。
豪徳寺のお堂の無数の招き猫の目がそのとき一瞬、点滅したが、それに気づいたのは、小さな虫たちだけだった。

成城学園前

ノブレス・オブリージュ

「ノブレス・オブリージュだね、いいじゃんパパ」
若山が自宅の半分を改装して、下手の横好きで集めてきた絵画や骨董品を展示するギャラリーにしたいと告げると、娘の洋子は身を乗り出した。料理研究家をめざしてフランスに留学したとき、財力や権力、地位を得た人が率先して地域に貢献するノブレス・オブリージュの精神に感銘を受けたのだという。

「あるマダムにうんと助けてもらったの。地域のためになるからあなたのレストランに出資もするし、政財界の人脈にもつなぐわよって。あのときもらったチャンスのおかげで、料理研究家としてのいまがあるから。パパの財産を目当てに邪魔だてする気なんてないわよ。猪股庭園とか清川泰次記念ギャラリーとかには及ばないだろうけど、成城の愛されスポットになるといいね」と地元の名所を引きながら熱っぽく語る。そして、満足げにうなずくと「わたしには自宅兼スタジオのこの環境があるし」と彼女の城である室内を見渡した。若山の自宅から徒歩十分のこの家に洋子が旦那と移り住んで五年が経とうとしていた。
「でも、なんでこのタイミングで? ママが亡くなって十年だし、わたしと隆さんがパパの家を出てからだいぶ経つし、いまさら広すぎて寂しいってこともないでしょ?」

きっかけは、三ヶ月ほど前のことだった。七十五歳の若山は、ふいに死を意識したのだ。疾病や事故で生死をさまよったというわけでもなければ、誕生日や引退といった節目を迎えたわけでもない。亡き妻が愛した庭から桜を見やっているときに、ああ、自分の盛りはすぎたのだという想いがとつぜん去来したのだ。思い返せば兆しはあった。生まれたときから成城のシンボルとして眺めてきた街の桜。かつては桜雲の景色に胸が高鳴ったものだが、ここ数年は静かに散りゆく姿に心を寄せるようになった。光をうけて、内側から発光しながら散ってゆくさまは、最後の最後までこちらを魅了するようでその一途さが胸に響くのだ。人生の黄昏を迎えた自分を、いつしか重ねていたのかもしれない。
若山はコピーライターとして華々しい実績を重ねてきた。一行のコピーで世の中の気分を鋭く言いあて時代をリードしたこともあれば、まだ無名だった海外のアーティストをCMに起用し、社会現象を起こしたこともある。同業者に多大な影響を残した仕事といえば、老舗企業を継承した若き経営者とたくらんで表参道に文化施設を打ち立てたことだ。専門知識もないままにコンセプトメイクから空間設計、デザイン、展示やテナントの招致までやり遂げてみせた。コピーライターの領域を拡張するかのようなこのプロジェクトは、商業クリエイターの挑戦形態のひとつとして模倣され、いまではすっかりお馴染みのアプローチになった感がある。常に先陣を切っていた。慣れ親しんだ手垢のついた心地よい環境から逸脱することを意識しながら、新しいフィールドを切り拓くクリエイターだった。

しかし、時代の空気が変わったことも相まって、あるときを境に若山はスローダウンした。新しい何かを生みだす刺激より、信頼できる仲間と豊かな土壌を掘り起こすような普遍的な仕事に喜びを感じるようになった。未来より本来を意識するようになったのだ。とはいえ第一線から降りた感覚はなかった。それは成城という街にも影響されていたためかもしれない。成熟した文化人が多く暮らすこの環境は、若さや青さを手放すほどに呼吸がしやすくなる印象があり、世の中を牽引する存在として影響力を発揮しつづけている感覚が薄れることがなかったのだ。しかしここにきて、長年の友人がそっと耳打ちするように、あるいは成城の化身ともいえる桜が鏡となって我が身を映し出したかのように、そろそろ表舞台から降りるべきだという想いが去来した。そして身辺整理をする感覚で、集大成ともいえるなにかを世に遺したいという衝動に駆られたのだ。広告のように刹那で終わるものではなく、生きた証となるような取り組みだ。そんな想いから、ギャラリーをつくりたいという想いに至ったのだ。

「なんでいまなのか?自分でもよくわからないんだが、まあ死を意識しているってことだな。俺の好きなものを詰め込んだ棺桶みたいなもんだ」と若山が冗談半分に笑うと、洋子も笑顔になった。
「ギャラリーのコンセプトが棺桶っていうのもパパらしいね。でも、静かにおさまっちゃう感じは、らしくないかも。一坪だけ無名の作家さんに無償で貸し出す展示スペースをつくったら?パパも書やらコピーやらでコラボしても面白そうだし、作家さんのプロモーションを手伝ってあげてもいいし。あ、成城学園の生徒さんたちとなんか企画しても楽しそうね。うん、いいかも。わたし、パパが若い子とつるんでるの見るの好きなんだよね」と洋子がアイデアの風呂敷を広げたところで、別室からアシスタントの呼び声がした。
「洋子先生、そろそろ生配信の時間ですー」
「はーい」と返しながら立ち上がった洋子は、若山に向かって「大人しく引退するなんて早いって。まだまだやらかしてほしいよ、娘としては」と笑いかけ、アシスタントの待つ部屋へと去っていった。
そうだな、悪くないかもしれない。若山は思った。俺が生きてきた証を、手持ちのコマで形にしたって面白くもなんともない。最後の最後まで若い作家たちの野心とコラボレーションしながら、死んだあとでも未来に関わり続けるのは時代と歩むコピーライターらしいといえるだろう。
「ノブレス・オブリージュか」と若山はつぶやいた。「実際は差し出す者こそ、そうとは知らずに幸せを授かるものなんだろうな」
若山は晴れやかな気持ちで、洋子が試作した台湾ケーキに手を伸ばした。

百合ヶ丘

クリームソーダ旋風

「よし、うまく包めた」
「あ、上手じゃん」
「どうやったらそんなにきれいにできるの?」
ダイニングテーブルに材料を広げて、玲奈たちが一つひとつ具材を餃子の皮に包んでいると玄関のほうから音がした。
「ただいまー。あら、こんにちは。玲奈の母です」
仕事から帰ってきた恵子が声をかけた。
「あ、おじゃましています。玲奈さんと同じデザイン・工芸学科の山本です」
「あ、私も同じ学科の須藤です」
同じ美大に通う遥香と百音が、玲奈の家に遊びに来て、晩ご飯は餃子パーティにしようと準備していたのだった。
「今日は泊まっていくんでしょ。ゆっくりしていってね」
「お母さんと妹さんの分も餃子つくりますから」
「わー、楽しみ。じゃあ、私は中華サラダでもつくろうか」
「いいですね。食べたいです」
「ただいまー。わあ、私も手伝う」
「先に制服着替えてらっしゃい」
中学校から帰ってきた玲奈の妹も餃子づくりに加わると、夕暮れの百合ヶ丘のマンションのリビングはさらににぎやかになった。

「あのね、クリエイティブなあなたたちに、ちょっと相談があるんだけど」
恵子が玲奈たちに頼みごとを切り出したのは、ニラたっぷりの手づくり餃子をみんなで食べ終えて「パンチがハンパなかった」などと自画自賛して笑い合っているときだった。
「なーに? お母さんがそんなおだてるような言い方から入るときは、面倒な頼みごとをするときだよ。みんな気をつけたほうがいいからね」
「なんですか。お母さん。私たちにできることがあれば」
「はい。こう見えてけっこうクリエイティブです。任せてください」
怪訝な顔をしている玲奈と対照的に、遥香と百音は前のめりだった。

「相談したいのはね、この街のことなの。なんだかコロナで人のつながりがなくなっちゃってね」
恵子によれば、コロナで地域のイベントや集まりが中断しているうちに、地元のことをやってくれていた方が高齢で引退したり、地域の団体に人が集まらず休眠状態になったりで、引き継ぎや立て直しがうまくいっていないということだった。そこで再始動のきっかけづくりにと、いろいろな団体が一緒に公園で秋祭りをやる話が持ち上がり、地域の子育て支援のボランティアもしている恵子に、その相談が来たのだった。
「ぜひクリエイティブなあなたたちにも何か出展してもらって、このイベントを盛り上げてほしいの」
「また、お母さん、仕事もいそがしいのに、そんな大変そうなことを」
「玲奈だって小さい頃、地域のお祭りを楽しませてもらったんだから、今の子たちにもやってあげたいでしょ」
「それはそうだけど」

渋っている玲奈の言葉を遮るように、遥香と百音が言った。
「何、迷ってるの、玲奈。やるよ。お母さん、消えかかっている街の火を灯しましょう」
「そうです。街の元気をつくることもデザインです。ちょうどそういう企画、私、やりたいと思ってました」
「ほんとに。すごい。さすが美大生」
「お姉ちゃん、私も手伝う」
「よし、玲奈姉妹を育てた街のためにやろう! いや本音は面白いことやりたいだけかも!」
遥香の言葉に、みんなが笑いながらうなずいた。
「そうだね。じゃ、自分たちが面白いと思うこと、やろっか」
玲奈が言うと、パチパチパチパチとみんなが拍手した。
「ねえ、早速なんだけどさ、このイベントがこの前、すごくよかったんだよね」
スマホを覗き込みながらの企画会議が早速はじまり、その日の夜遅くまで続いた。
そんなノリで始まった玲奈たちの企画だったが、三ヶ月後に公園で開催された秋祭りで、想像以上に大きな人だかりをつくることとなった。玲奈たちが仮設テントに掲げたお店の名前は「昭和喫茶 ゆり」。昭和レトロな雰囲気を、令和の美大生の感覚でポップにデザインしたクリームソーダ屋さんだった。

「当日、昭和を感じるものを持参・展示してくださる方には、クリームソーダ無料券を進呈します!」
街の人を巻き込もうと考えた三人のアイデアで、一ヶ月前からそんなチラシを街のお菓子屋さん、電器屋さん、銭湯、ラーメン屋さんやスーパーに貼ってもらったところ、これが想像以上の反響。「昭和喫茶 ゆり」には開店早々、昭和を感じるものを持った人が列をつくった。
「うちにこんなのがまだあったよ」
「出たー、花柄のポット。エモい!」
「こんな白黒テレビ、知ってるかい」
「見て見て、チャンネルがダイヤルだよ。かわいいー」
「昭和三十年代の百合ヶ丘の写真なんだけど」
「すご、こんなに山だったんですか」

オレンジ色のミニテーブル、殺虫剤の宣伝用ホーロー看板、アイドルのブロマイドやレコード。続々と届くレトロな品々はカフェスペースに入り切らず、急遽、仮設テントを増設して、展示スペースをつくってもらった。遥香がデザインしたカードに出品者の名前と品物の紹介文を手書きで書いて添えると、古びたモノたちが息を吹き返したように輝き出して、おしゃれな古道具屋さんのようなたたずまいになった。それがまた十代の子たちには「映える」と好評で、昭和を知る世代には思い出話の尽きない人気コーナーとなった。
「遥香、クリームソーダづくりが間に合わないんだけど」
「ごめん。こっちも手一杯なんだ」
「あら、おばあちゃんが手伝おうか」
「お願いしちゃっていいんですか」
「むかし、この近くで喫茶店やってたのよ。任せて」
「え、ほんとですか」

青春期の記憶のように、昭和はこの街の人の中に生きていた。熱源のようなものがそこにあった。

中央林間

青春、ゴー!ゴー!

「なぁ、小杉先生が言ってた話、どう思う?」ケンジは隣を歩くフミカに尋ねた。
「ああ、埋蔵金?」とフミカは興味なさそうに返す。幼なじみのふたりは中学二年生。自宅が近いこともあり、学校の行き帰りは自然と一緒になることが多かった。しかし、このところフミカは読書好きの友だちとつるむことが増え、別々となることが多かった。今日は久しぶりに一緒になり、ケンジの心は弾んでいた。
「あの源義経の埋蔵金だぜ?」
それは歴史の先生から聞いた中央林間の言い伝えだった。国道十六号線は浅間神社だった地に通っているのだが、そこに埋蔵金が埋まっているという。京都から兄の頼朝を訪ねて鎌倉を訪れた義経は、目的を果たせないまま帰路につく途中で宿を借りた浅間神社へのお礼に、兄への土産だった財宝を渡した。それが埋められたまま現代に至るというのだが、真意は不明だ。
「つくり話だよー。そんなのより中央林間で、日本でいちばん古い土器が発掘された話のほうが好きだなぁ。だって、本当に見つかったんだもん」とフミカが可愛らしく反発する。
「本当かどうかわからないから面白いんじゃん。見つけたら、ちょー金持ちじゃん」とケンジは、フミカが話に乗ってきたのを嬉しく感じながら言い返す。
「見つけたって、わたしたちがもらえるわけじゃないでしょ」
「市長になったら好きに使えるんじゃね?」
「えー、そんなわけないよ。市長になったら、よけいに自分のためには使えないよ。みんなの意見を聞いて、中央林間を素敵な街にするために使うんだよ」
「じゃあ俺が市長になって、すっげぇ良い街にしてやるよ」
「いいよ、じゃあ、市長にしてあげる。どう使うか言ってみ」
フミカはケンジに向きなおると、厳しい試験監督のように腕を組んでみせた。幼い頃からごっこ遊びを重ねてきたふたりにとって、これはお決まりの展開だ。
「そうだなぁ、まず諸君には立派な図書館が必要だろう。もっと勉強するように」と得意げに話すケンジ。
「ぶっぶー!図書館はもうあります。ケンジが知らないだけ。カフェもあって便利なんだよ」とフミカが得意げに返す。読書が好きな友だちとつるんでいる場所なのだから、とうぜんだ。自分の知らない世界を見せつけられたようで悔しいケンジだったが、動じてない風を装う。
「そんなことは知っとる。君を試したのがわからんのかね。言いたかったのは、みんながいつまでも健康でいられるように、健康都市計画に使うのじゃ」
「けんこうとし〜? なに、それ? 意味がわからない」
「中央林間はお年寄りもたくさんいる街だから、長生きできる計画をたてるんだよ」
「そんなこと言ったら子どもはどうするの?子どもも、たくさんいるじゃん」
「うむ、採用。子どものためにも使おう。今日から君は子ども大臣だ」
「市長より大臣のほうがたいへんじゃん。適当すぎ!市長、君にはビジョンというものがないのかね?」
「あ? ビジョンってなんだよ?」
「わたしたちの未来とか、将来とか、君はどうしてくれるのじゃ?」
「俺たちの、しょ、しょうらい?」
フミカの投げかけに、ケンジは面食らった。俺たちの未来? ふたりの将来? あらぬ妄想が広がる。
「どうしたの? なんだか顔が赤いよ?」不思議そうに覗き込むフミカの眼差しに、ケンジはますます顔がほてるのを感じた。
「お、おれ、俺たちの将来はー」
「おう!」挙動がおかしくなったケンジを見て、次なる悪ふざけを思いついたのだろうと期待を膨らませるフミカ。どんなボケでも的確にツッコミを入れるぞという構えである。そのさまを見ながらケンジはぼんやりと思った。このキラキラと躍る瞳を、どれだけ見つめてきただろう。それに化粧なんて知らなかった頃から、艶やかなリップグロスが笑顔を彩るようになったのは、いつが境だったのだろう。そんな疑問とともに、ふいにフミカが遠くに感じられた。小さかった頃は身長も変わらず目線は同じ位置にあった。そこからケンジばかりニョキニョキと背が伸び、いまではフミカを見おろす形で高低差が生じていることも、ふたりが離れてゆく暗示にとれて不安にかられたのだ。そんな自分の想いを振り払うように、ケンジは思い切ってずっと言えずにいた言葉を告げた。
「お、俺、お前が、す、すきー」

ゴー!ゴゴゴゴー!

ケンジの想いを無情に切り裂くように、飛行機の爆音がとどろいた。厚木基地に近い中央林間で生まれ育った者にはお馴染みで動じることはないが、さすがに出鼻をくじかれたようで、身をすくめたケンジ。しかし、そんな彼の意中をはかることなくフミカは、いつものように爆音でかき消された言葉が再び口にされるのを耳をさしだして待っている。一心に。ごくり。唾を飲み込むケンジ。もう、引き返せないのだ。ケンジは覚悟を決めるとフミカの耳元に顔を寄せ、胸に秘めていた言葉を再び告げた。言い終えて身体を離すと、フミカの反応を飛行機の爆音にも勝る胸の鼓動とともに待つ。ケンジの思いもよらない告白に、愛らしい目をぱっちり開き驚いた表情を浮かべていたフミカだったが、やがてリップグロスで彩られたその口元に優しい微笑みが浮かんだ。そして思い切り爪先立ちになってケンジの肩に手をかけると、耳元で
「おまたせ!」
「うわっ!」
天から降ってきたフミカの声に、ケンジは突っ伏していた身をガバッと起こした。あわてて周囲を見まわす。見慣れた教室。窓からは放課後の柔らかな日差しが注いでいる。夢? 夢を見ていたのか・・・・・・ 「あ、寝てた?またせてごめんね。帰って、昨日の続きやろ」
フミカはゲームのスティックを操るマネをしながらケンジに笑顔を向けた。そのさまにケンジの胸に、なんとも言えない感情が広がった。
窓の外では、青い空を飛行機が日の光を受けながら飛んでいた。

湘南台

宇宙の子

「かわいいね」
「かわいいね」
「このほっぺのまるさ」
「ぷにゅぷにゅ」
「ちいさいはなのあな」
「ぴくぴくしてる」
「大泣きしてたのがうそみたいだ」
「ねむかったんだね」
「ここに連れてくるのはまだ早かったかな」
「でもさいしょはごきげんだったよ」

だっこひもの中で眠っている宙の寝顔をのぞきこみながら、大輝と蒼は小声で話した。湘南台文化センターこども館は、秋の休日を過ごす家族でにぎわっていた。大輝と蒼にとって、ここは専門学校生の頃にデートをした思い出の場所だった。生後三ヶ月になった宙を連れて、初めてちょっと長時間のお出かけをしようと考えたとき、思いついたのはここだった。科学や世界の文化を、手で触れながらおもしろく学べるこども館の展示に、宙も目を見張り、あちこちへ手を伸ばして触れてみては、確実に何かの刺激を受けていた。こども館の名物、体長一メートルほどもある大きなカナブンやチョウのオブジェを怖がることなく、ペチペチと小さな手で叩いてニコニコしているのには、大輝と蒼も驚いた。

「あの調子ならプラネタリウムも大丈夫かなと思ったんだけどね」
「最後に泣き出しちゃったね」
「まわりの人に迷惑だったかな」
三階の宇宙劇場でのキッズプラネタリウムは途中で退出することになったが、八割くらいまでは観れた。宙が泣き出したところで三人で劇場から出て、一階ロビーに移動すると、宙はすやすやと眠りはじめたのだった。

「蒼ちゃん、胸の張りはどう?」
「張ってる」
「痛いの?」
「ちょっと痛いけど大丈夫」
「宙にたくさん飲んでもらわないとね」
「うん。このまえね、授乳してるとき、宙が笑ったんだよ。てへって感じで」
「へえ」
「かわいかったなあ」

蒼にとって初めての妊娠は、初期の頃、なかなか状態が安定せず、すぐに医療事務の仕事を休んで自宅で安静にしなければならないほどだった。それからは営業職で遅い時間までお客さんに対応することが多かった大輝も、急いで会社を出て、帰宅途中で買い物もして帰るようになった。予定日よりだいぶ早く陣痛が来たときは、タクシーで病院に向かいながら二人で赤ちゃんの健康を祈った。分娩室での誕生の瞬間は、大輝のほうが号泣して、つられて蒼も泣いた。母子ともに健康で、何も問題はないと聞いたとき、病院の廊下でもう一回パパは大泣きしていたわよと、蒼は看護師さんから聞いた。それからは、暮らしに起こるたくさんの初体験に奔走してきた新米パパとママにとって、宙の寝顔を眺めるひとときは、台風の目の中でふと訪れる晴れ間のような、貴重な時間だった。

宙が次に目を覚ましたら授乳室に行くことにして、それまではロビーのベンチに座って二人は休憩することにした。水筒に入れてきた麦茶を飲みながら、蒼は起きていたときの宙をスマホで撮った写真を、大輝の両親と自分の両親のグループLINEにそれぞれ送信した。
「今日は文化センター子ども館に来ています、と」
送った写真はさっそく既読になり、両方のじいじとばあばから嬉しそうな返信が来た。
「プラネタリウムも観れました、と」
メッセージを送り終えると、蒼はスマホから目を離し、大輝の顔を見て言った。

「大ちゃん、宇宙ってすごいね」
「おもしろい展示だったね。前に来たときよりおもしろかった」
「もし生命の誕生に必要な元素が地球に揃わなかったとしたら、この子はここにいないんだよね。そう思ったら、感動しちゃった」
「わあ、蒼ちゃん、宙の誕生をすごいところまでさかのぼったんだね」
「だってそうでしょ」
「そこまでさかのぼらなくても、私とあなたが出会わなかったらこの子はいないのね、くらいが普通かなと思うけど」
「たしかに広島生まれの大ちゃんと、山形生まれの私が藤沢で出会ったわけだから、それも奇跡だと思うけどね。でも、宇宙のちりがすごい遠くから集まって、地球になったんだって。すごくない?」
「すごいよ。それは間違いなくすごい」
「だよね」
「うん。俺たちが藤沢で出会ったことより、宇宙のちりが出会うほうがスケールは大きい。でもさ、俺たちが結ばれて、蒼ちゃんのお腹でこの子ができたわけだからさ」
「うん」
「精子と卵子が奇跡的に出会えて、この子が生まれたんだね、くらいでも十分なんじゃないかと」
「うーん、いや、やっぱりそもそも、ビッグバンのおかげなんじゃない?」
「おいおい、うちの宙は百三十八億歳ですか」
「あははは。そうかも」
「やれやれ。それにしても、宙、よく寝てる」
「いい顔してる。今日はたくさんの子どもたちがいたね」
「そうね。こども館だからね」
「ベビーカーの赤ちゃんもけっこういた」
「そうだね」
「ここからは、ここだけの話ね」
「何?」
「ここだけの話だからね」
「どうした?」
「うちの子がいちばんかわいいね」
小声で言いながら蒼が変顔をしてみせたのがおかしくて、大輝は噴き出すように笑った。二人の笑い声で宙も目を覚ました。秋の午後の日差しに照らされて、こども館の銀色の建物が輝いていた。宇宙の片隅の授乳室で、小さな生命が大好きな母の胸に吸い付いた。

開成

途中の手

張り替え作業中の床板にぽとぽとと汗が落ちる。首にかけていたタオルを、はちまきのように頭にしばり直しながら、可奈はリノベーションを自分でやることにしたことを後悔しはじめていた。まだ六月なのに今年は真夏日となる日も多く、この日も午前中からすでに二十九度に達し、風の通らない空き家の中で、床板を並べてはビスを打ち続ける可奈の体から容赦なく水分を奪った。
「今日は暑いでしょう。ちょっと休憩しなよ。麦茶つくってきたから」
庭のほうからの声に可奈が振り返ると、ウォータージャグを持った女性がいた。近所の山田さんだった。
「うちの子が小学生のときのサッカーチームで使ってたジャグだから、使って。このコップも」
「わー、ありがたいです」
縁側に置いたジャグのつまみを倒すと、冷たそうな麦茶が勢いよくコップにあふれた。
「あー、うまい。生き返ります!」
「水分補給しないと。熱中症になっちゃうよ。気をつけてね。もっと飲んだら」
山田さんは手際よく、コップにおかわりの麦茶を注いでくれた。

「どう? ゲストハウスはできてきた?」
「それがぜんぜんで。失敗してやり直したり、材料が足りなくなって買い足しに行ったり。動画サイトを見ながらやればできるなんて、あれは相当な経験者だから言えることですね。そもそもDIYがこんなに体力勝負だとは思いませんでした。もうダメかも」
可奈はまだ十分の一ほども床板を張れていない部屋に山田さんを案内した。
「まだこんな状況です」
恥ずかしそうに可奈が言うと、山田さんの反応は予想外だった。
「すごーい。いいじゃない。あの古びた畳の部屋がすごく変わりそう。びっくり。やっぱり若い人のセンスは素敵ね。おばさんには思いもつかないわ」
「そうですか? 敷居もはずしちゃって広い空間にしようと思って」
「それも気持ちよさそうね。いやあ、まさか昭和感たっぷりのあのおうちをゲストハウスにしようとはね。その発想とエネルギーがすごい。尊敬する。可奈ちゃん、その調子で頑張りな。応援してる」
オーバーなくらいの山田さんの明るい言葉は、枯れかけていた可奈のやる気にも、嬉しい水分を注いでくれた。
「おじいちゃんとおばあちゃんも、孫の頑張りをきっと天国から応援してるわよ。じゃ、頑張って。何か手伝えることがあったら言ってね」
「ありがとうございます。頑張ります!」
すっかりやる気を取り戻した自分を単純な性格だなと思いながら、可奈はまた作業を始めた。

六年前に祖父が亡くなり、四年前に祖母が亡くなって、父が相続したものの、誰も住まない空き家になっていた開成町の家。それは可奈にとっても幼い頃におじいちゃんおばあちゃんと過ごした思い出が詰まった場所だった。可奈たち家族は、横浜市街のマンションに暮らしていたが、ゴールデンウィークやお盆休みはおじいちゃんの家に来て、虫取りや魚釣り、畑にとうもろこしを採りに行ったりした。学生になってからも、ロードバイクが趣味だった可奈は、横浜からここまで、週末に自転車で遊びに来ることもあった。祖父母が亡くなり、空き家になってからは、法事に来たときに、家族で掃除や庭の草刈りをしながらノスタルジックな気持ちに浸る。そんな場所だった。

「建物は人が使うことで生き続ける。大事にしたいなら、守りながら使うことを考えることだよ」
きっかけは、可奈が社会人になって二年目の頃、たまたま旅した長野の小さな町で、古民家を宿泊施設として運営している人の話を聞いたことだった。興味津々で次々と質問をしてくる可奈に、その人は自分が他に運営するゲストハウスや民泊施設を見学させてくれた。旅から帰った後もSNSでつながり、その人が発信しているDIYの様子を見ては、イメージを膨らませた。
「あのさあ、おじいちゃんちをリノベーションしてさあ、ゲストハウスをやるなんてどうかな」。可奈の中でできていた構想を、少しずつ父と母に機会を見て話した。「古民家というほどじゃなくても、あの築六十年の味は、けっこう可愛いたたずまいにできるはず」「一階の八畳の和室二つと廊下もつなげば大きな空間になって、おしゃれな共有スペースになる」「そこから眺めるあのお庭は、海外から来たお客さんたちがすごく喜ぶと思うんだ」「庭の植木の手入れだけ、ときどきお父さん、お願い」。改装には自分の貯金をあてることや、軌道に乗るまでは今のスポーツジムインストラクターの仕事をしながら運営資金を稼ぐことを伝えて、ついに今年の正月、父に認めてもらったのだった。最初は無理だと反対していた父が、それからはむしろ応援モードに変わって、資金の一部を出してくれたり、近所の人たちに娘のゲストハウス構想を説明してまわってくれたことには可奈も驚いた。父もあの家には想い入れがあるのだと、後で母から聞いた。
「目標 花火の日までの完成!」
スケジュールに書き込んだときは、まだまだ時間はあると思っていた。それからあっという間に半年が経ち、夏が近づいても、完成にはほど遠い作業が続いていたのだった。

ただ、山田さんからの冷たい麦茶の差し入れの日以来、少し変化があった。山田さんから状況を伝え聞いたらしい近所の人たちが、ときどき様子を見に来てくれるようになった。なかでも三軒隣の高木さんの協力は大きかった。
「ほう。女性がひとりでここまでやったのかい」
「はい。建築の仕事をしている友人からアドバイスはもらったのと、資材を運ぶのは父や兄にも手伝ってもらったのですが、基本、私ひとりで」
「たいしたもんだ。でもこの調子じゃ、あと二年はかかるな」
「ですよね。夏までにと思ったんですが、甘かったです。最初の頃は仕事もしながら週末だけの作業で、今月からは仕事もやめてこっちに専念してるんですが」
「もう紫陽花の季節だしな。で、どこまでを、どうしようとしてるんだ?」
自動車部品メーカーに長年勤務し、定年延長で今は週三回だけ働いているという高木さんが、休みの日はリフォーム作業を手伝ってくれるようになった。DIYのクオリティとスピードが三倍くらいになったように可奈は感じた。

そしてもう一人、毎週月曜日に手伝いに来てくれるようになったのが、山田さん宅の長男で、可奈より二つ年上の慎太郎だった。可奈がまだ幼い頃の夏休み、一緒に遊んだ記憶がかすかにある山田さんちのサッカー少年が、身長百八十センチの大人の男性になっていて、久しぶりの再会のときは、可奈はドキドキした。箱根のフレンチレストランで料理人をしているという慎太郎は、月曜日が休みだからと、おにぎりやサンドイッチを持って、朝から手伝いに来てくれるようになった。
「いつも月曜日はお昼の休憩が充実します。ありがとうございます」
「いや、母親に持って行けって言われてるだけだから」
「つくってるのは慎太郎さんなんでしょ」
「うん」
「一流フレンチシェフのつくる食事、おいしいですよ」
「ただのおにぎりと玉子焼きですけど」

気さくな幼馴染みのお兄ちゃんという感じの慎太郎と作業をしていると、可奈は気持ちが落ち着いた。
「それにしてもご近所にすごいシェフがいたとは」
「まだ修業中。すごくないよ」
「いつかこのあたりにフレンチレストランを開いてくださいよ」
「え、考えたこともなかったな。こんなところにお客さん来てくれる?」
「きっと来てくれますよ。うちのゲストハウスもできますからね。泊まったお客さんにも案内します」
「それじゃあ、朝食にスープくらい届けようか」
「それいい! おいしいスープのあるゲストハウス」
「うちの畑の野菜を使ったオニオンポタージュとか、どう?」
「それ、めっちゃいい。ほんとにやりたい」
慎太郎と話していると、ワクワクする将来が見えてくるのが不思議だった。

八月下旬の土曜日、可奈が完成目標の日にしていた町の花火大会の日がやってきた。まだ共有スペースができただけだったが、協力してくれた人にここまでのお礼を伝えようと可奈が呼びかけたお庭バーベキューには、多くの人が集まってくれた。手ぶらで来てくださいと言ったのに、みんないろんな食べ物や飲み物を持ってきてくれて、庭に出したアウトドアテーブルはいっぱいになった。賑やかに語り合っている近所の人や家族、友人を見ていると、おじいちゃんの家にまたエネルギーが満ちてくるような感覚があって、可奈は嬉しかった。
「娘のわがままにお付き合いいただいてすみません」
「いやいや、健ちゃんの娘さんもよく頑張ってる。だんだん私たちにとっても楽しみになってきましたから」
父が近所の人たちから子どもの頃の呼び名で呼ばれているのも可奈にはおかしかった。
ドーン。ドーン。ドドーンドーン。日も暮れた頃、庭から見える田んぼの向こうに、打ち上がり始めた花火が見えた。花火がもっとよく見える田んぼ道へとみんなが歩いて出ていくと、庭の縁側には可奈と慎太郎だけになった。途切れない花火の音のなか、静かに二人の手が重なると、ひときわ大きな花火が開成の広い空に開いた。

代々木上原

ひとりじゃない

自転車で美術館に行くのが、萌子のよくある休日の過ごし方だ。今日も自転車で神宮前の美術館に行き、海外アーティストの企画展を観て帰る途中。井の頭通りを西へ走っていた。代々木上原という街は萌子にとって、自転車であちこちの好きな美術館に行けるベストな拠点だった。この街自体に派手さがないのも、暮らすにはちょうどいい。人気のドーナツ屋さんやカフェもいいけれど、ちょっと古びた街中華や定食屋さんが心地いい。二十代後半になり、この街に住んで六年目になる萌子はそう感じていた。井の頭通りから南に少し入ったところのコーヒー豆店で豆を買ってから、一人暮らしのマンションに帰った。

ウェブデザイナーとして制作会社で働いて五年が経ったところで、萌子は会社を辞めてフリーランスになった。その少し前、萌子にとっては大きめの失恋をして、環境を一新したい気持ちもあった。でも、それよりも、自立への憧れのようなものが萌子の胸の内に湧いていた。そのくらいの経験年数で独立して、やっていけるの? しかもコロナ下だよ。会社の同僚や先輩、実家の家族からは心配された。たくさん稼げなくていい、自分が生活していくくらいは大丈夫と言って、萌子は本当に会社を辞めた。何も根拠はなかったが、なんとかなる自信は不思議とあった。デザインの仕事でお金が足りなければ、他の仕事をしたっていい。そのくらいの気持ちだった。

結果的に、この一年、萌子はなんとかなった。自分の実績集を見てもらいに行った大学の先輩でもある女性ディレクターが、萌子に仕事を依頼してくれたのだった。大手企業のウェブサイト制作を立て続けに二件、手伝わせてもらうことになり、萌子は自分の部屋を仕事場にしてプロジェクトに加わった。リモートでの作業が中心だったが、ビジネスチャットで頻繁にやり取りが進むまっただ中に入ると、一人で働くさびしさのようなものはなかった。ただただ、クライアントの期待に応えるデザインを出していくことで気持ちはいっぱいだった。大きなプロジェクトは納品までに時間がかかり、フィーが支払われるまでは時間がかかるが、独立したての萌子を気づかって、先輩が先に萌子に一部の支払いをしてくれたのも有り難かった。通帳に初めて入金が記帳されたのを見たときは、萌子はホッとしてATMの前で泣いた。

さっき買ってきたコーヒー豆を挽きながら、萌子は日曜日の夕方四時からのオンラインミーティングに備えて、メールで届いている資料に目を通した。会社員ではなくなってから、土日にも必要があればミーティングを入れるのが普通になった。むしろ、今、萌子が参加しているウェブサイト制作チームは、クライアントとのやり取りが激しくなる月曜日に備えて、週明けからの進め方を日曜に軽く確認するのが最近の習慣になっていた。コーヒーカップを片手に、オンライン会議アプリを立ち上げてミーティングルームに入ると、メンバーはまだ揃っておらず、パソコンの画面に一人の女性だけが映った。萌子に仕事を依頼してくれた田中智子だった。

「いつも日曜日にごめんね」
「大丈夫です。さっきまで美術館に行ってました」
「この前、観たいって言ってたやつ?」
「そうです。すごくよかったですよ」
「へえ、いいな」
「智子さんこそ家族との時間は大丈夫なんですか」
「今日は娘のピアノの発表会に行ってきた」
「へえ、いいですね。どうでした?」
「それが、親バカだから感動して泣いちゃってさあ」
「へえ、すごい」

画面に映る智子の後ろのほうから小学生の女の子が顔を出して、萌子に可愛らしくあいさつした。今度、うちに遊びに来てと言われて、萌子は快く約束した。そうこうしているうちに遅れていたメンバーが二人、加わって、雑談はすぐにミーティングに移行した。一人として同じ会社に所属しているわけではない、それぞれがフリーの女性メンバーで構成されたチームのミーティングは、進め方のプロフェッショナルさに加え、親しみと気づかいがあって、萌子は大人の会話に入っている感じがして嬉しかった。

「萌子の仕事にもいつも助けられているよ」
「あ、もう独立一年だよね。おめでとう。プロジェクトが一段落したら打ち上げしたいね」
「萌子さんの独立一周年祝いも兼ねよう。まん防も終わったし」
「本当にこのチームに入れていただいて、感謝しています」

ミーティングの終わり際の先輩たちの言葉が、新米フリーランスに温かく沁みた。大丈夫、ひとりひとりだけど、ひとりじゃないものだから。最初にあいさつに行ったときに智子が言った言葉の意味が、萌子は少しわかった気がした。

夕ご飯は昨日つくりおきした肉じゃがにすることにして、小さな缶ビールだけ買いに行こうと、萌子は夕暮れの街に歩いて出た。井の頭通りを渡りながら、モスクの塔の屋根のほうに大きな夕陽が見えたとき、自分で生きている小さな実感が萌子の中に湧いた。明かりがつき始めた小さな商店が並ぶ上原の街も、ひとりじゃないからねと言ってくれているように萌子は感じた。後に国内外でデザインの賞を取り、有名デザイナーになっていく女性の、地道な独立一歩目を夕陽が照らしていた。

向ヶ丘遊園

ノスタルジア

どれだけ時が流れても、物理的な距離があっても、人は生まれ育った土地とつながっている。久しぶりに実家のある向ヶ丘遊園を訪れた太郎は、学生時代に利用した喫茶店で自分のやわらかい部分と再会したような感覚に浸っていた。その耳に、隣のテーブルで若者たちが交わす会話が心地よく響く。
「クラウドファンディング、大成功だったね」
「プロダクトの機能性より、めざす世界観に共感して応援購入してくれた人が多かったのが嬉しかった」
「この流れに乗せて投資家から資金調達もする?」
「迷う。事業を拡大したいわけじゃないし」
「僕らの夢に共感してくれる人に、僕らが好きなものを届けられたら充分」
「うん、経済的なインパクトは追求しない」
「いまのままがいい」
聞き覚えのある言葉に、太郎の胸に懐かしさがこみあげた。「いまのままがいい」それは在りし日の父の言葉。幸せな記憶として刻まれている言葉だった。

太郎の父は、出版社に勤める編集者だった。多忙な毎日を送っていたが、休みとなると絵を描いていた。お気に入りのモチーフは、向ヶ丘遊園。昭和二年に小田急電鉄がつくった遊園地で、太郎の家から歩いて行ける距離ということもあり、いくどとなく家族で出かけた。しかし、太郎が社会人となり、地元を離れた数年後に惜しまれつつ取り壊しとなった。それでも父は、記憶の中にある向ヶ丘遊園をのびやかに描き続けた。おとぎの国に続く正面の大階段、大観覧車、ばら苑、桜、そして太郎たち家族の姿。

そんな父の絵が脚光を浴びる出来事があった。仕事で組むことの多かったアートディレクターから、初邦訳される海外の文学作品の装幀に、父の絵を使いたいというオファーがあったのだ。本職ではない、編集者が趣味で描いている絵を使うなんて著者に申し訳ないと最初は断った父だったが、絵を見た著者の意向でもあると口説かれ形になった。
見本が刷り上がった日は、家族でささやかなお祝いをした。父が取り出したその本には、幻想的な色彩の観覧車が大胆な構図で使われていた。紛れもない父の絵だが、アートディレクターのデザインによって、まるで生き物のような躍動感を放っていた。太郎と母は思わず息を飲んだ。そのさまをウィスキーのグラスを傾けながら見守っていた父だったが、おもむろに「ほら、見てごらん」と言いながら本のカバーを外してみせた。現れた本体の表紙には、カバーの絵と対比するような素朴な鉛筆画が使われていた。咲き極まる桜とともに描かれた三人の人物。表情などディテールは描かれていない。でも、それは確かに太郎たち家族だった。三人だけがわかる家族の風景。
「やったー!」思わず歓声をあげた太郎だったが、ふと疑問を覚え、無邪気に問いかけた。
「お父さん、絵のお仕事したらいいのに」
絵で暮らしをたてる画家という生き方があることを、なにかで知っての問いだった。すると父は、くったくのない笑顔で答えたのだ。
「いまのままがいいんだよ」
「えー、なんで?」問いかける太郎の頭をなでながら父は重ねた。
「父さんは絵が描きたいんじゃなくて、お前たちを描きたいんだよ」
父の言葉に微笑む母。小学生の太郎には父の言葉が理解できなかったが、穏やかに並ぶ父と母を前にあたたかなものが胸いっぱいに広がるのを感じ、大きくうなずいた。
あの頃と違って、いまなら父が言わんとしたことがわかる。いまなら−。

するりと太郎の意識が、過去からいまに戻った。幸せな記憶がもたらした微笑みを口元にたたえたまま顔をあげると、隣の席で未来に花を咲かせていた若者のひとりと視線がぶつかった。太郎の微笑みを自分に向けられたものと勘違いしたのだろう、くったくのない笑顔を返してきた。太郎はそのさまに虚をつかれた。年齢も見た目もまるで違うのに、在りし日の父と重なるものがあったのだ。思わず口を開いた。

「君たちの話、とてもよくわかる。もし、良かったら詳しく聞かせてもらえないかな?」
「え?」
「あ、とつぜん、ごめんね。うちの会社、将来世代の起業家に投資しているんだ。経済的な成長を目的としない、好きなものを好きな人のためにつくるという価値観を尊重しながら、未来を共創できたらと思って」
「えー! ありがとうございます!」
歓声をあげる若者たち。彼らを眩しく見つめていた太郎だったが、同時にあたたかなものが胸の内で脈打つのを感じていた。

形あるものは、よどみなく変化する。この世に生を受けたものは、いずれ旅たつ運命にある。それでも幸せな記憶は、幸せな未来となって何度でも立ちあらわれる。

栗平

ヒーローインタビュー

サッカーチームの練習グラウンド脇の坂道を登って、緑地帯の尾根道へ。それが谷本博之の朝のランニングコースだ。小高くなっている緑地帯は川崎市麻生区と町田市のちょうど境目で、町田や鶴川の街並みを見渡すことができ、その向こうには丹沢の山々、そして大きな空も見える。その日は朝焼けの空が特にきれいで、谷本は一瞬立ち止まって、取り出したスマホで空を撮影した。散歩している近隣の人とあいさつを交わしながら緑地帯を抜け、部活の朝練で早めに学校に向かう中高生とすれ違い、住宅街の神社でお参りして帰るのが谷本の毎朝のルーティーンだった。
「おはようございます。今朝の丹沢の山と空はすごくきれいでした。今日も谷本整骨院、スタートします!」
SNSに朝の写真をアップすると、谷本はシャッターを開けて、まだ真新しい玄関マットを入り口に敷いた。一人で開業して一ヶ月が経った新米の整骨院は、まだ看板の設置も間に合っておらず、取り急ぎ買ってきた黒板のウェルカムボードに診療メニューを書いて、看板代わりにしていた。派手に目立つくらいの入り口にしていかなければダメだと、開業している先輩からはアドバイスされたが、谷本はあまり気が進まず、地味な外観のまま一ヶ月が過ぎていた。カフェだと間違って入ってくる人もいて、さすがに看板は付けなきゃなあと、自分の整骨院を眺めながら谷本は思った。

待合室の壁にはサッカー選手の写真が一枚、額に入れて飾られている。親しいカメラマンが開業祝いにとプレゼントしてくれた、Jリーグでプレーしていた頃の谷本の写真だった。体を張った激しいディフェンスの瞬間を捉えたその一枚は、泥臭いプレーに定評のあるボランチだった谷本らしさそのものだった。ただ、その分、体への負担は大きかった。ケガにも苦しみ、ベンチを温める日々が続き、早くも二年目で戦力外通告を受け、退団。活躍の場を求め、東南アジアの二ヶ国でもプレーしたが、膝のケガが再発し、引退を決意した。それからは、人の体を支える仕事をしようと、柔道整復師の資格を取って、この道へ。横浜の整骨院で働いた後、この街で自分の整骨院を開業したのだった。

少しずつ少しずつ、ゴルフで痛めた肘の相談に来る六十代男性、草野球の試合中の肉離れでチームメイトに運ばれてくる五十代男性など、この街のスポーツ愛好家たちが来院してくれるようになった。とはいえ、まだ知名度のない整骨院。予約が入っていない時間も多く、その日も午前は十一時に一件の予約が入っているだけだった。院内の電気をつけ、谷本がパソコンに向かって新しい治療機器の情報を調べ始めていたとき、ドアが開き、誰かが来院した音がした。受付から顔を出して入り口を見ると、そこにいたのは、中学生らしき男の子二人と女の子一人だった。
「ん? どうした?」
「あのー、今、僕たちはまちの取材活動をしているんですが、インタビューをさせてもらえないでしょうか。もしお忙しい時間でしたら、また違う日に来ますがいかがでしょうか」
取材の依頼文を棒読みするような言い方があどけない生徒たちは、制服から近所の学校の子たちだとわかった。よく見ると後ろのほうに見守っている先生がいて、谷本に向かって頭を下げた。生徒たちは自分の学校のある地域を紹介する地域新聞をつくるそうで、取材活動をしていると言った。
「いいよ。ちょうど今、患者さんいないから。どうぞ、入って」
谷本は待合室に生徒と先生を招き入れた。

「まず、えーと、お名前とお仕事を、えーと」
メモ帳を手に、カチコチに緊張して質問する中学生記者たちをほぐそうと、谷本は最初に、実は自分もきみたちの学校の卒業生だと伝えた。
「あ、そうなんですか」
「そう。先輩後輩だな」
生徒たちと先生がホッとしたように顔を見合わせて笑ったのを見て、谷本も笑った。中高とサッカー部で、朝練から夜遅くまでサッカー漬けの日々だったことや、そのときの友だちとのつながりで、ここに整骨院を開いたことなど、そこから三十分、生徒たちからの囲み取材に谷本は応じた。最後にカメラ担当の生徒が谷本の写真を撮って取材は終わった。
「じゃあ、がんばって。いい記事書いてくれよ」
見送るときには後輩たちが、甥っ子と姪っ子のように思えた。

それからまた一ヶ月ほどが経ったある日の夕方、あの時の男子生徒の一人が、できあがった新聞を届けてくれた。「クリヒラマガジン」と題されたそれはカラフルにデザインされていて、手づくり感もあり、好感が持てた。
「おっ、上手につくってんじゃん」
「あ、ありがとうございます」
「取材されたこと、もうすっかり忘れてたよ」
新聞には生徒たちの地域の美化活動の様子が紹介されていたり、中華料理店や本屋さん、不動産屋さんやカフェの店主、グループホームの施設長などと並んで、谷本院長のインタビュー記事があった。
(おー、おれが載ってる)
その瞬間、小さな整骨院が、この街に認めてもらえたような気がして、谷本は思わず目頭を押さえた。
「こちらこそありがとうな」
写真付きで掲載されていた自分のインタビュー記事を夜になってからゆっくり読んでみると、整骨院の紹介よりも、選手だった頃の話よりも、中高のサッカー部で試合に出してもらえなかった時期の思い出話を中心にまとめられていた。
(そこを書いてくれたかあ、やるなあ、あいつら)
失敗を怖がって萎縮して、どんどん悪循環に陥っていたあの頃の自分。不格好でいいと開き直れたときに何かが変わった。もがきながら強くなった自分の根っこを生徒たちが受け止めてくれた気がして、谷本はボロボロと泣いた。

「クリヒラマガジン」に掲載された効果は予想外に大きく、谷本整骨院には中高生からの部活動のケガの相談や治療が増えた。治療した子たちの様子を見に、休日の試合の応援に谷本が行くことも増えた。朝のランニングですれ違う生徒たちがあいさつをしてくれるようになったことも谷本は嬉しかった。
「朝のランニングも暑くなってきました。おはようございます。中高生も熱中症に注意。今日も谷本整骨院、スタートします」
ルーティーンのSNS投稿をしてシャッターを開けると、サッカー部の頃、夏の朝練に行くときの匂いを谷本は感じた。前の小道を遅刻気味の生徒数人が走っていくのが見えた。
いまだに看板が付いていない谷本整骨院だが、待合室にはサッカー選手の写真と並んで、「クリヒラマガジン」のインタビュー記事が貼ってある。中学生の書いてくれた見出しが、すっかり谷本整骨院のスローガンになった。
「この街のみんなのトレーナーになる」

座間

ともだち祈願

「今日の放課後、ひま?」
春に転校してきたばかりの里奈に、クラスの中で最初に話しかけた男子は、隣の席になった悠真だった。五年二組のなかでいちばん足が速い男子で、新学期最初の体育の時間も、側方倒立回転をきれいに決めて、先生を驚かせていた。女子たちにも人気があるらしいことが、里奈にもすぐわかった。そんな悠真が帰りの会の後に急に話しかけてきて、里奈はドキドキした。

「このまちの面白いところ、連れてってやろうと思って。まだ何も知らないだろ」
「え、ほんと?」
「鈴鹿明神社はわかる?」
「そこはわかる。引っ越してきてすぐ家族でお参りに行ったから」
「じゃ。家にランドセル置いたら、そこに集合で」
「え、何分後くらい?」
里奈がそう聞いたときには、もう悠真は走り出していて、教室を出ていった。慌てて里奈も教科書をランドセルに詰めて、家に向かった。

(悠真くんちって学校から近いのかな。ランドセル置いてすぐって、どのくらいすぐなんだろう)
足の速い悠真を想像して、里奈も息を切らして家まで走って帰り、また家から少し学校側に戻ったところにある神社に着いたのは三十分ほど経った頃だった。テレワーク中で家にいたママに、どこに遊びに行くのかを説明するのに時間がかかってしまった。悠真が自分を待ちきれず帰ってしまったらどうしようと思いながら走って、ようやく神社の鳥居に里奈は着いた。

「「おーい、里奈が来たぞ」
「走ってきたの? 大丈夫?」
「お、一緒に遊ぶの初めてだ」
「あ、里奈ちゃん。よかった。来れたんだ」
「りなっていうなまえなの?」
そこには悠真だけでなく、同じクラスの太一と拓実と美咲と、初めて見る一年生くらいの子もいた。 「この子は悠真の弟の翔ちゃん」と美咲が教えてくれた。
悠真と二人きりではなかったことに里奈はちょっと拍子抜けしたが、男子とはそういうものだと気持ちを切り替えた。
「ごめん。走ってきたんだけど。遅くなって」
息を切らしながら里奈があやまると、ぜんぜん大丈夫、もう遊んでたからとみんなが言った。

「じゃあ行こう。まずは里奈に見せたいものがある」
そう言うと悠真が境内の倉庫のような建物のところに走っていって、何かを指差した。里奈も追いかけて、ガラス戸に顔を近づけて中をのぞくと、薄暗い建物の中に金色に輝くものが見えた。「お神輿?」と里奈が聞くと、悠真がうなずいた。
倉庫の中に見えているのは大人用のお神輿で、自分たちは子ども神輿をかつぐことや、それでも重くて肩が赤くなることを悠真は誇らしげに話した。
「こんなふうに揺らすんだ」
悠真がお神輿を担いでいるまねをして境内を歩いてみせると、太一と拓実と美咲と翔ちゃんもそれに続いて、体を揺らしながら、「どっこいどっこい!」と掛け声を言った。
「わっしょいじゃなくて、どっこいっていうの?」
「そうだよ」
里奈も翔ちゃんの肩を持ってエアーお神輿に加わった。

みんなで並んで本殿の前で手を合わせた後、六人は子どもたちしか知らない近道を通って、車の通りの少ない道に出た。そこは家の塀を突き破って伸びる大木があったり、道の脇をさらさらと小川が流れていたりして、里奈は長野のおばあちゃんちの近くみたいだと思った。
「次はここだよ」
今度はお寺の境内に入っていく悠真たちについていくと、そこには透明感のある池があった。
「これ、湧き水なんだ」
「こんなところに湧き水?」
さっきまでの街が嘘のように静かになって、ひんやりとした空気が六人を包んだ。

「おう、悠真も翔も、もう学校終わったのか」
作業服でひげを生やしたおじさんが悠真に親しそうに話しかけてきた。話しぶりから、悠真たち兄弟のことをよく知っている人のようだった。転校してきた子にこの街を見せようと思って連れてきたと、悠真は里奈を指差した。
「初めまして。里奈といいます。四月に東京から引っ越してきました」
里奈も挨拶した。
「里奈ちゃん、座間にようこそ。悠真はちゃんと、この街の紹介をできてた?」
「はい。お神輿のことを教えてくれました」
「よし、次は座間の湧き水についてだな。悠真、説明できるか?」
にやにやして口ごもっている悠真の肩を優しくパンチするような仕草をして、おじさんは笑いながら、ちゃんと覚えておけよと言った。悠真が苦笑いした。
ひげのおじさんは、悠真の代わりにと言って説明を始めた。座間は湧き水がたくさんあること、それはこの土地が長い年月をかけてできた河岸段丘という地形で、水が湧き出てくる地層があるということを説明してくれた。さかのぼれば縄文時代からこのあたりには人が住んでいたんだよとおじさんが言ったとき、里奈にはおじさんが縄文時代の人に見えた。
「今、みんなのいるこのあたりが昔からの座間の中心でね、きみたちの小学校も百二十年以上前に、このお寺の寺子屋から始まったんだ」
すぐそばに見えるお寺を指差しておじさんは言った。おじさんの話を聞きながら周りを見ていると、なんだか時代をタイムスリップするような感覚があって、小さな翔ちゃんが寺子屋で遊んでいる着物姿の子に見えた。

「座間はどう? 東京から来ると、だいぶ違うかな」「はい。ちょっと田舎のおばあちゃんちに来たみたいです。あ、すみません、田舎というのはいい意味です」
里奈は、両親がテレワークで働くようになって、東京から少し離れようと座間に引っ越してきたことを話した。転校のときは泣いたけど、そんなに遠くに行くわけじゃないし、東京の友だちとも時々遊ぶことにしているから寂しくはないと言った。おじさんはうなずきながら聞いて、里奈ちゃんは悠真と違ってしっかりしているなあと言った。
里奈が話し込んでいるうちに、気づけば太一と拓実と美咲と翔ちゃんは水辺の生き物探しに夢中になっていた。
(あれ、悠真は?)
里奈があたりを見回して探すと、悠真は小さなお堂の前に立って手招きしていた。
「里奈、こっち、こっち」
里奈が悠真に近づいてお堂の中を見たときだった。里奈は思わず声をあげて、悠真の腕をつかんだ。
「きゃあ、なにこれ! へび?」
お堂の中には、とぐろを巻いた大蛇と人が一つになったような不思議な石像があった。

「あはははは」
驚いている里奈を見て、悠真も、少し離れたところからおじさんや太一たちも笑っていた。
「大丈夫。水の神さまだよ。弁財天とか宇賀神といって、豊作をもたらしてくれる神さまだよ」
縄文時代のおじさんがそう言った。ふと横を見ると悠真が両手を合わせて石像を拝んでいたので、里奈も悠真から手を離して、石像を拝んで目をつむった。
縄文時代のおじさんが帰った後も、六人は湧き水が注ぐ小川の流れる公園で、サワガニを見つけたり、体の柔軟さを競い合ったり、新しい担任の先生のものまねをしたりして過ごした。あっという間に空は淡い夕焼け色になっていて、そろそろ帰らなきゃねと美咲が言った。

帰り道を歩きながら、「引っ越してきていちばん楽しい日だった」と里奈が言うと、「座間はまだこんなもんじゃない」「次はどこに行く?」と、みんなが口々に言った。
「里奈が早く座間に慣れるように、俺が水の神さまに祈っておいたから」
悠真が急に真顔で言ったので、里奈は頬を赤らめた。
「え、そうなの? ありがとう」
「うっそー」
変顔をして逃げる悠真を、頬を膨らませた里奈が追いかけるのを見て、みんながげらげら笑った。

大和

バーダーズ・ハイ

まだ暗い部屋で、スマホのアラームの音がする。布団の中から手を伸ばし、由理恵がスマホを見ると、朝五時だった。隣には大きな背中がある。そうだ、昨日は仕事帰りの駿がうちに来て泊まったんだった。まだ寝息を立ててぐっすり眠っている恋人を起こさないように、そっと由理恵はベッドから出て長い髪を括り、カーディガンを羽織った。
産業機械メーカーの海外営業として働く由理恵にとって、コロナ禍で海外への出張も旅行もできなくなった当初は、自分の世界がだいぶ狭まった気がした。ただ、以前は慌ただしく眠りに帰っていただけの大和の街に、前よりも自分がなじんでいるような感覚もだんだんと生まれた。

お湯を沸かしながら手際よく着替えを済ませ、ドリップバッグのコーヒーを淹れて由理恵が飲み始めたとき、窓の外からスズメたちの声がした。カーテンを少し開けると、三月初めの朝の空はもう明るくなり始めている。急がなきゃ。由理恵は朝の支度のスピードをあげた。
「おはよう。あれ、もう出発?」
キッチンからの物音で目を覚ました駿が、寝ぼけまなこで言った。
「ベーコンエッグとサラダ、ここにあるから食べて」
「相変わらず早起きだねー。休みなのに」
由理恵は横になっている駿の顔を両手で持ってキスをすると、まだ一緒にいたそうに絡んでくる駿の腕をほどいて部屋を出た。
「じゃ、いつものところに行ってくる」

ボアアウターを着込んだ由理恵は大和駅前の商店街を足早に歩き、西に向かった。週末はいつも少年少女のサッカーチームの練習で賑わっている小学校のグラウンドも、朝六時はまだ静まりかえっている。道の向こうに少しずつ高い木々が見えてくると、さまざまな鳥たちの声が聞こえて、由理恵を急かした。

「今、行くからね」
独り言を言いながら由理恵が道路脇から坂道を降りていくと、そこは引地川の源流部。「泉の森」「ふれあいの森」と名付けられた、川沿いの細長い自然公園。由理恵の早起きの目的は、ここで鳥を観ることだった。

由理恵が野鳥観察を楽しむようになったのは半年ほど前のこと。公園をダイエット目的でランニングしていたとき、大きなレンズを付けたカメラを水辺に向けている人や、樹上を指差しながら双眼鏡を覗いている人たちがいた。
「よかったら覗いてみますか」
興味深そうに後ろから眺めていた由理恵に、母親くらいの年齢の女性が双眼鏡を覗かせてくれたことがあった。双眼鏡を首にかけてもらい、ピントの合わせ方を習い、その人が指差す方に由理恵が双眼鏡を向けたとき、目の前の世界が変わった。何かが見えたというより、野生の生き物のドキュメンタリー映画に、一瞬にして自分が没入するような体験。すごい。これがバードウォッチングなんだ。地面で何かをついばんでいる名前も知らない小鳥の姿に、言葉にできない愛おしさを感じたことを伝えると、女性も嬉しそうにうなずいた。その日の夜には、女性が持っていたものと同じモナーク7という双眼鏡を由理恵はネットで購入した。由理恵にしては珍しい衝動買いだった。

それからというもの、天気のいい週末は早朝からこの自然公園に来て、午前中は鳥を観て過ごすことが由理恵の習慣になった。真冬だろうと、恋人と夜を過ごした翌朝だろうと。この日も由理恵はいつものように、川沿いの遊歩道を、上流の調整池に向かって、耳を澄ませながら歩く。林の中や水辺からも聞こえる羽ばたきの音、落ち葉の上をカサコソ跳ね歩く音、そして、チッチッチ、キュイー、ピーヨピーヨ、さまざまな鳴き声、求愛のさえずり。音のするほうに素早く双眼鏡を向け、覗き込むと、凛とした美しいボディのアオサギ、地面を軽快に走るハクセキレイのペア、動く小魚を誇らしげにくわえたカワセミ。特にモコモコした冬の水鳥たちは、ぬいぐるみが池を泳いでいるみたいで、由理恵は好きだった。朝の光のなか、飽きることなく鳥たちの世界に入り込んで過ごした。

「いたいた。やっと見つけた」
駿も歩いて泉の森にやってきたのは九時半頃だった。「起きた? LINEくれればよかったのに。あ、LINE来てた。ごめん。気づいてなかった。鳥に夢中で」
「そうだと思った」
駿がサーモボトルに入れて持ってきてくれたホットコーヒーを飲みながら由理恵が公園を見渡すと、犬の散歩の人や家族連れの姿も徐々に増えていた。
「なんで寒い季節に行くのかなと思ってたけど、冬は樹の葉が落ちて鳥がよく見えるんだね」
「冬しか見れない可愛い子もいっぱいいるしね。ほら、あそこにいる。双眼鏡、使う?」
「うん。どこを回すとピントが合うの?」
「まずは左目をここで合わせて」
由理恵が駿の背中から手を回して双眼鏡の調整を手伝って、ピントが合った瞬間、駿がつぶやいた。
「やばい。こんな世界があったんだ」
「あったんだよ」
小さな命の輝きに遭遇し、ただただ見つめている小さな自分たち。東名や246を通過している人には絶対に見えない豊かな宇宙に、今、二人はいる。

本厚木

シロコロ同盟

陽太が店に入ると、先に来ていた啓治と悟がシロコロホルモンをつまんでいるところだった。
新鮮な豚ホルモンが生のまま流通している厚木では、やわらかい大腸を管状のまま一口サイズに切って焼く。歯応えのある外側と脂がたっぷりのった内側を一緒に焼くことで外側が縮み、コロコロすることから、シロコロホルモンの名で愛されている。なかでも友人の亮が経営するこの店で出すものはオリジナルのたれが人気で、県外からも多くの客が訪れていた。これまでは。
「客、入ってないんだね」啓治と悟に合流しながら、陽太は亮に聞こえないよう小声で言った。
「うん、俺らだけ」と返した悟は、亮が陽太のウーロン茶を手に向かってくるのを目にして口を閉じた。

四人は本厚木で生まれ育った悪友である。いまではホルモン屋の経営者、商社の営業、銀行の融資担当、広告代理店のマーケターといった具合に、それぞれの道に進んでいる。それでも色あせない友情は、百年続く大鷲神社の酉の市や、あつぎ鮎まつり、ハロウィンパーティーで地元を盛りあげる熱源にもなっている。
そんな彼らにとって亮の店は、定期的に集まるのに便利な場所だったが、コロナの影響で客足が遠のいていることから、陽太、啓治、悟は以前より意識的に顔をだすようになっていた。

亮に笑顔を向けながらウーロン茶を受け取った陽太だったが、ふと店の様子が普段と違うことに気がついた。亮のパートナーで、ホールで接客を担当している祐美の姿がない。
「喧嘩しちゃってさ…」陽太の視線に気づいた亮がボソリという。夫婦なら喧嘩くらい珍しくない。受け流そうとした陽太だったが、なにやら不穏な話が続いた。

「経営が厳しくて、喧嘩が絶えなくてさ。実家に帰ってるんだよ」
「ええ? そんな大事な話、早く言えよ」とつめよる三人だったが、その実、亮の気持ちも理解できた。親友でも、お互いにさらけださない一線がある。それぞれが孤独に臨む領域があるからこそ、変わらない友情を尊く感じているのだ。

だが、窮地となれば話は別だ。陽太と啓治、悟は視線を交わした。
「よし、俺らで店を立て直そう」陽太が口を切った。
「いいね、やろうぜ」と悟も膝を打つ。
亮が慌てて声をあげる。「そんなこと思いつきで言うなよ。みんな仕事があるし、家族もいるだろ」
亮の気持ちを軽くしようと、啓治が悪びれた感じでいう。「別に亮のためじゃないし。この店のシロコロホルモンはうまい。そして俺はファイナンスのプロで、陽太は目利きのプロで、悟はマーケティングのプロ。みんなで儲けたいじゃん」
「はーい!」と悟がおどけた感じで続ける。「食肉販売業の免許をとって、シロコロホルモンの冷凍パックをネットで売ろう。パッキング機、安く調達できるよ」
「いいねー。俺、コンビニの商品開発担当者にコラボの提案してみる」と陽太も続く。

「なんにせよ、資金だよね。まずは助成金かな」と啓治が頭の中で算盤をはじきながら言う。
「おまえら…」笑顔が戻ってきた亮を見ながら、陽太がうなずいた。
「今日は客もいないし、みんなで店を閉めて祐美ちゃんを実家に迎えに行かない? 俺らも一緒に頭をさげてやるよ」
「いいね。祐美ちゃんのおじさん、おばさんにも会いたいしね。きっと笑って迎えてくれるって」

店の外に出た四人は駅前の商店街を抜け、祐美の実家がある川沿いへと足を向けた。
先ほどまでの笑顔が一転、みんな表情が陰っている。その胸は、同じ思いにとらわれていた。痛みを抱えているのは亮の店だけじゃない。自分たちを愛し、育ててくれた街の人々が苦しい状況にあることは、商店街の活気のなさからも感じられた。
無言のまま川沿いまで歩いてきた彼らだったが、陽太が意を決したように口を開いた。
「なあ、亮の店を立て直したら、商店街のほかの店の手伝いもしないか?」
「俺も同じこと考えていた。この街の灯りを、ひとつでも多く守りたい」啓治がうなずく。
「どこまで力になれるかわからないけど」少し慎重に、だが自信を覗かせた表情で悟も返す。
そんな彼らを頼もしく感じていた亮だったが、ふと横手を見やり、明るい声で言い放った。
「いや、大丈夫。俺らには、ほら」いつの間にか四人は、厚木神社の前まできていた。
「俺らには氏神さまがついているからさ。さあ、商売繁盛を祈願しようぜ」
得意げに境内へと向かう亮。さっきまで肩を落としていたとは思えないようすがおかしくて、陽太が思わずツッコミを入れた。
「おまえはまず、祐美ちゃんとの家内安全を祈願しろって」
子どものような四人の笑い声が、本厚木の夜空に明るく響いた。

参宮橋

はる、準備中

『今日、お店に来ない?』
突然のあかねからのラインを受けて、悠里は参宮橋にいた。木造の駅舎を抜けると、悠里の頰を、少し柔らかくなった風が撫でる。
(会うの、一年ぶりくらい?)
大学時代、あかねと悠里は一緒に暮らしていた。就職で離れたあとも仲が良かったが、コロナの影響もあって、会うのは久しぶりだ。最後に会ったときは、呑みながら朝まで語ったっけ。なんだかもっと前のことに思える。あかねが週一でバーの店主をやると聞いたのは、そのときだった。編集の仕事を続けながら、休日だけ知り合いの店に立つというあかねに、悠里は驚いた。「できるの?」と聞く悠里に「できるよ」と返すあかねの瞳は、新しい挑戦に輝いていたのを覚えている。

バーがあるらしい小道に入る。初めて降りた参宮橋は、うねった坂道が多く、地図を見ないと迷ってしまいそうだった。目印になりそうな建物もなく、昔ながらの民家やアパートが多い。なんだか、ゆるりとした空気の街だ。店は、少し背の高いビルの二階にあった。扉を開け、お邪魔します、と声をかける。

「おっ、来たね、久しぶり」
カランコロン、と鳴ると同時に、あかねの声。店はちゃんとした造りで、黒の落ち着いた壁紙に、品の良い絵が飾ってある。一枚板の、分厚いカウンターに腰掛けて見ると、あかねは少し髪が短くなっていた。
「今日はお店、休み?」
「うん、緊急事態宣言中はね」
「そうなんだ、じゃあ今日はどうして?」
「いま、新しいメニュー考えててさ。悠里、試飲してくれない?」
「なるほどね、いいよ」
「ありがと、じゃ、早速!」

返事を聞くや否や、あかねが準備を始める。コツコツ、と氷を砕く音が耳に心地よい。久しぶりの再会で、話したいこともたくさんあったはずなのに、あかねの手際の良さに悠里は見入っていた。昔から器用で、なんでもやってみるタイプだったな、と悠里は思い出す。

「お待たせ、飲んでみて」
「ありがと、わ、綺麗な色」
コツン、とグラスが置かれた拍子に、琥珀色の細かな気泡が弾ける。いただきます、と一口。爽やかな喉どおりのあと、ゆずとラムの余韻が広がり、香りが鼻に抜けてゆく。
「ん、おいしい!これ、普通のコーラじゃない?」
「さすが、悠里なら気付くかなと思った。クラフトコーラなんだよ」
「なるほど、こだわりだ。ゆずも合うね」
「このコーラ、常連さんが教えてくれたの」
「へえ、舌の肥えた人が来るんだね」
「うん、年上の人が多いかな。みんな落ち着いてて、おじさんも、おじさまって感じよ」
「おじさまねえ。男の人ばっかり?」
「そうでもないよ、いろんな人が来る。コーラは、表参道で会社経営してるお姉さんが教えてくれた。いつもすごい綺麗な色の服着ててさ、五十代くらいかなぁ。かっこいいんだ」
「えー、会ってみたい」
「でしょ。あとは、地元の人も多いね。ここら辺で、お店やってる人たちとか。女性の店主さんも結構いるから、仲良くなって。コロナの前は、みんなで呑みにも行ったよ」
「ほんと、酒のあるところ、どこにでも行くんだから」
楽しそうなことがあると、顔を出さずにはいられない。
子どものように、きらきらと笑うあかねを見ると、自分とは時間の進みが違うように思えた。カウンター一枚が、埋められない隔たりに感じられて、悠里は思わずぽつりとつぶやく。
「私ばっか、つかれた大人になったみたい」
「大人?」
キョトンとするあかねに「大人。なりたくなかったなぁって」と、悠里は続けた。
「いま、新商品のプロジェクトに入れてもらってさ、楽しいけど、忙しさやばいんだよね。リモートつかれるし、もうほんと、仕事ばっか」
「悠里は、がんばりやさんだからな〜。いいじゃん。今日は、呑みましょうよ」
いつの間にか手にしたグラスを傾け、あかねが小さく乾杯する。
「たまには息抜きしよ。それに、大人もそんな悪くないよ。私も仕事したくねーってなるけど、ここで働いてから、ほんといろんな人に会ってさ。大人もいいじゃんって思った」
「あかねが?」
「うん。みんな、自分のお店を愛してるんだよね。なんかいいなって」
「その影響で、新メニュー開発なんてしてるわけだ」
そう、負けてらんないのよ!と、息巻くあかねに、悠里はふっと気が抜けた。

「春になったら、お店に来てよ」
「うん。来るね。またこれ呑みたい」
「おかわりも、おつくりしましょうか?」
ニヤッと笑うあかねに、悠里は「お願い」とグラスを差し出した。
「はーるの小川は、さらさらいくよ」
あかねはそう口ずさみながら、空になった悠里のグラスに、ラム酒とコーラを注いでいく。
「何だっけ、その歌」
「ん、そのまんまだよ。春の小川。この辺が舞台なんだってさ」
「へえ、知らなかった」
「私も、この前知ったんだ。あっ、やば、ラム入れすぎた」
ちょっと何してんの、と笑う悠里につられて、ごめんごめん、とあかねも笑う。静かな店内に、二人の笑い声だけが響いていた。もうすぐ、春がくる。

下北沢

スティルアライブ

弓子が開いている小さな喫茶店に、耕太という若者が演劇のチラシを置いてもらえないかと最初に頼みに来たのは三年前の夏だった。チラシを見ると下北沢を拠点としていて、最近、少しずつ人気が出てきていると聞いたことのある劇団だった。
「あなたも出演するの?」
「はい。これが初舞台です」
「初舞台かあ、私も思い出すなあ。それは応援しないとだね。がんばって。ポスターも貼っておくよ」
「ありがとうございます。あのう、ご飯も食べてっていいですか」
「もちろん。うちは定食もあるよ」

大盛りにしてあげた生姜焼き定食を勢いよく食べる耕太が、弓子には息子のようにも弟のようにも見えた。
口をまだもぐもぐさせながらチラシの出演者のところを指さして耕太が自分の名前を言って頭を下げた。弓子も自分の名前を伝え、下の名前で呼んでくれればいいよと言った。
「弓子さんも演劇やってたんですか?」
「うん。昔のことだけどね」
「それでシモキタでお店を?」
「そうね。仲間もいたし、ずっとみんなで文化祭を続けてるみたいなこの街が離れがたくって。それと、おなかをすかせた若者がたくさんいるから、かな」
「おなかをすかせた若手を代表して感謝します」
屈託なく話す、きれいな目をした耕太を、将来が楽しみだなと弓子は思った。

そんなシモキタにも、二◯二◯年、世界的な感染症による行動制限の波は押し寄せた。演劇の文化も消えてしまうのではとささやく人もいた。しかし、もともとタフな人間力が演劇人の特徴。目の前の経済的な損得だけで生きている人たちでもない。劇団ごとに新しい稽古や公演の方法を探したり、新しいコミュニケーションの方法でファンとつながったり、公演がやりにくい時期は他の仕事をしてしたたかに時期を待ったり。
それぞれが着々と動き続けていた。

弓子の喫茶店も不安になる時期はあったが、できる安全対策をして待っていると、近隣の常連さんたちが戻ってきてくれて、テイクアウトやデリバリーサービスも始めると見通しが立ってきた。食事に来る劇団の人たちはいたが、耕太が何ケ月も来ていない。そのことを弓子は気にしていた。そんなある日、自転車の配達員さんに注文の品物を渡そうとしたときだった。
「弓子さん、俺です」
「え、耕太くん?」
「です!」
配達員が、耕太だった。
「もうここんとこずっと忙しくなっちゃって来れずにすみません」
「元気なの?」
「めちゃめちゃ元気です。体も動かせて最高です。じゃ、お届けに行ってきます」
「え、ママチャリで?」
「そうです。これしかないんで!」
「仕事終わったら、寄りなよ」
「はい!」

その日の夕方、「配達完了いたしました」と言って笑いながら、耕太が店にやって来た。
「今度はタダで運びますから」
「いいよ、そんなの。もうずっと姿を見ないからどうしたのかと思って」
「お店の前は何度か自転車で通ってたんですよ、あ、弓子さん元気そうだなって」
「だったら声くらいかけなよ。心配するでしょう」
弓子の言い方に、本気で心配されていたことを感じて、耕太はぺこりと頭を下げた。
久しぶりの大盛り生姜焼き定食を食べながら近況を語る耕太は、よく日焼けしていて元気そうだが、少しやせたようにも弓子には見えた。配達先のお客さんに劇団のファンがいて応援されたこと、シモキタを走っていると知り合いがよく手を振ってくれてホームタウン感がすごいことなどを耕太は話した。それからはまた、ときどき耕太もお店に食べに寄るようになって、ママチャリで鍛えられたふくらはぎを見せて、弓子を笑わせたりした。

演劇を再開できることになったと耕太が報告に来たのはもう冬だった。先輩と一緒に二人芝居をやることにしたと耕太は言った。
「おめでとう。やっとだね」
耕太が目を潤ませるので、弓子も目頭を押さえた。
「耕太くんも前よりたくましくなったし。お店に来てくれる演劇の人たちの明るさに、ほんと私も元気をもらってる」
「ご飯で元気をいただいてるのはこっちです」
「いや、こっちだって」
「いいえ、こっちです」
「こっちだって」
「こっちです」
「じゃあ、この感じがシモキタの強さってことか」
「ですね。きっと」
耕太の次の芝居の公演予定日を聞いて、弓子はお店の休みと重なる日を見つけて、カレンダーに印をつけた。
「この日に行く。予約よろしく」
「弓子さんには大盛りの演技をお届けします」
「よろしい。頼むよ」

三月のある日の夕方。入り口で検温を受けて弓子が劇場へ入ると、久しぶりの観劇を心待ちにしている人たちで席は埋まり始めていた。消毒や換気対策をした劇場内は清潔感があって、演劇を支える人たちの努力を感じた。開演を告げるアナウンスが終わって急に小さな舞台にスポットライトが当たると、そこに俳優としての耕太が立っていた。いい顔をしていた。ふくらはぎがやけに太かった。開演五秒で、弓子はもう涙した。

狛江

デビュー前夜

こんな世界があったなんて、どうしてもっと前から気づかなかったんだろう。夕食後、自宅のリビングで自分のロードバイクを眺めながら、俊明はあらためて思った。室内に専用のバイクタワーを据え付けて、宙を浮いているようにディスプレイ収納している俊明の愛車は、アルミフレームの鍛造技術で知られるアメリカのメーカー製。フレームの形状の微妙な曲線を見つめながら、その設計の意味を想像したりしていると、俊明はいつまでも眺めていられた。
「小学生みたい」
お風呂上がりの妻の綾子がからかった。

結婚を機に狛江のマンションに引っ越してきて五年。
仕事関係のお付き合いゴルフと、おいしい日本酒を買ってきて綾子と一緒に飲むことくらいしか趣味がなかった俊明が、ロードバイクに出会ったのは半年前。テレワーク続きで増えてきた体重を落とそうとランニングは時々していたが、何か刺激が足りない。そう思いながら多摩川の堤防を走っていたとき、颯爽と自分を追い抜いていく何かがいた。夕日を反射して輝くスマートな車体。締まった足腰にぴったり密着するウエア。
いい。このストイック感。自分が求めているのはこれだ。健康のためだからと綾子に説明し、翌日にはネットで調べた近所の専門店で、少し背伸びして、ドロップハンドルのロードバイクを購入したのだった。飲みにお金を使うよりはマシだねと綾子も認めてくれた。

一通りの装備も整えて、初めて自分のロードバイクで多摩川を走ったときは感動だった。
「初心者なのに、もうそんなピチピチのパンツ履いて」
「この自転車に、普段着じゃ合わないだろ」
「ヘルメット、前後ろ、逆じゃない?」
「え? いや、合ってるんだよ、これで」
初めて家から出発するときは、ぎこちなさを綾子に笑われた。でも正直、まだ乗ることに必死で見た目を気にする余裕はなかった。笑う綾子に見送られ、出発。
「トシアキ、行きます」

走り出して3分ほどで住宅街を抜け、多摩川へ。勢いをつけて堤防へ駆け上がると、見慣れていたはずの景色がいつもより雄大に見えた。右、左、右、左。ペダルをこぐごとに自分がぐんぐん加速し、景色が流れ出す。なんだろう、ひとこぎごとに時空をワープするような、不思議な感覚。地面のわずかな凹凸や傾斜が伝わってくるのも新鮮だった。ブレーキやギアチェンジを試しながら走るうちに、あっという間にランニングでは来たこともないところを走っていることに気づく。
多摩川の風景が大きく変わることも発見だった。
「やばい。ロード、最高。多摩川、最高」
ちょっとハイになって、川をバックに撮った自撮り写真を綾子にラインで送った。

それから半年、多摩川沿いを少しずつ距離を延ばしながら走るうちに、ベテランレーサーに話しかけられて親しくなったり、同じマンションの同年代の人が、俊明の勧めで同じロードバイクを買ったり。自転車で人のつながりまでが生まれていくのが不思議だった。夜、リビングで愛車を見つめていると、ロードバイク乗りとしての成長の実感が湧いてきて、それがまた俊明にはたまらない歓びなのだった。

「明日、朝早いんでしょ。早く寝たら?」
そうだ、ついに明日、自分は次のチャレンジに踏み込むのだった。綾子に言われて、俊明はハッとした。それはロードレースのプロたちも走る、アップダウンの続くコース、南多摩尾根幹線道路、通称「おねかん」。
多摩川で知り合ったベテランレーサーに誘われて、勇気を出して一緒に走りに行くことにしたのだった。坂道を登り切る達成感を知ったとき、ロードバイク乗りは次の次元に突入する。ある人がブログで書いていた言葉を思い出し、ついに自分がその入り口に立っていることに、ドキドキした。
「バーミヤン坂という坂がいいらしいんだよ」
「わかったから、もう寝なさい」
「はい」

鶴川

時空フライト

「形あるものはいつか必ずこわれるんだから、しょうがないよねえ。ねえ、さくら、ちょっとおばあちゃんとお散歩に行こうか」
遊びに来た鶴川のおばあちゃんの家が楽しくて、ハイテンションではしゃぐうちにテーブルからコップを落として割ってしまったさくらは、ママに叱られて大泣きしていた。好きだったおばあちゃんちのコップが割れたことがさくらも悔しいのに、さらに怒ってくるママ。どうしたらいいかわからず、さくらはひたすら大きな声で泣いた。おばあちゃんに慰められても高ぶった気持ちがおさまらず、涙と鼻水をティッシュで拭いてもらいながら、さくらはおばあちゃんと外に出た。

「もう。ママなんか。ママなんか。だいきらい」
「ほうら、さくら、川に鴨の親子がいるよ。可愛いねえ。ずーっと昔、このあたりはね、鶴川村っていうところだったの」
まだふくれているさくらと手をつないで鶴見川沿いの遊歩道を歩きながら、おばあちゃんはいろんな話をした。意地を張っていたさくらも少しずつ落ち着いて、おばあちゃんが指さす川辺の生き物や花、空の雲を見つめはじめた。
「ここらへんはかやぶき屋根のおうちもあったからねえ。さくらも、さくらのママも生まれる前のことだけど、ほたるだってたくさん飛んでたんだよ」
「ふうん」

さくらのしゃくりあげる泣き方がようやくおさまってきた、そのとき、夕暮れの空気のなかを黒い小さなものが舞ってきて、小さな橋の欄干にとまった。
「おばあちゃん、これ、ほたるなのかなあ」
そう聞きながら、手をつないでいるおばあちゃんの顔を見上げたとき、さくらは「わあ」と声をあげた。
「だれ?」
おばあちゃんだと思っていた人は、制服を着た中学生くらいの女の子だった。
「だれなの?」
「どうかした? 私は千代子だけど」
「ちよこ?」
驚いたさくらの目にまた涙がたまってくるのを気にせず、中学生の女の子は話し続けた。
「私が十五歳くらいの頃だったなあ。この村がどんどん変わっていったのは。大きな団地がいっぱいできてね。たくさんの人が引っ越してきたの。わかる?」
「わかんない」
「そうか。じゃあ見せてあげる。手を離さないでね」

そう言って女の子は少しかがみこんだかと思うと、さくらの手をつないだまま、空に向かってジャンプした。
そして落下することなく、上空へ、静かに舞い上がった。さくらが怖くて目をつむると、涙がぽろぽろ頰をつたった。
「びっくりした? でもだいじょうぶ。それじゃあ、目を開けてみて」
千代子の声がして、おそるおそる目を開けたさくらは、息をのんだ。
「わあ。とんでる」
さくらは空を飛んでいた。中学生の女の子と手をつないだまま、大の字になって浮いている自分の下のほうに、何棟ものピカピカの四角い建物が並ぶように建っていて、その中庭のようなところでたくさんの子どもたちが鬼ごっこや缶蹴りをして遊んでいるのが見えた。
「わあ、すごい」
「あそこで遊んでいるのが、さくらのママだよ」
「え? ママ?」
「鶴川団地にいっぱい仲のいいお友だちがいたの」
上空から目をこらしてどれがママなのかをさくらが探していると、一人の女の子と目があった。
「あれがママなのかな」
「正解。さくらとそっくりでしょ」
まだ子どものママが不思議そうな顔をしているのがおかしくて、さくらと千代子は顔を見合わせて笑った。
小さなママに手を振りながら、千代子とさくらは旋回して再び高度を上げた。

気づけばあたりは薄暗くなっていて、団地のたくさんの窓があかりを灯し始めていた。
「わあ、ぴかぴかしてる。きれい」
「さあ、そろそろ降りるよ」
「うん」
さくらと千代子は手を強く握り直して下降を始めた。
地面がゆっくり近づいて鶴見川が見えてくる。点滅している小さな光の群れのなかを通過すると、それは無数のほたるだった。
「わあ、いま、さくらのかおにほたるがあたったよ」
「そうね。私も」
さくらと千代子もほたるのように静かに、川沿いの遊歩道に降り立った。
「じゃあ、おうちに帰ろうか。ママももう怒ってないと思うから」
「うん」
つないでいる手の先をさくらが見ると、それは中学生の女の子ではなく、おばあちゃんだった。
「ねえ、おばあちゃん」
「なあに?」
「おばあちゃんのなまえって、ちよこ?」
「あら、よく知ってくれてたねえ。そうだよ」

「ただいま」とおばあちゃんの家の玄関を入ると、ママがどこに行ってたのと言いながらさくらの頭を抱き寄せた。
「川沿いのベンチで昔話をしてたら寝ちゃってねえ」
「まあ」
さくらの肩から点滅する小さな光が飛び立っていった。

相模大野

みんなきみたちのために

(家族って、合宿だ)
雄輔がそう思ったのは、ある夏の朝だった。夜が明けてうっすらと部屋のなかが明るくなり始めた頃に目を覚ますと、妻と二人の子たちは寝息をたててまだ眠っていた。雄輔の胸の上には四歳の長女の両脚が乗っている。二歳の長男は布団の上で向きが逆転していて、雄輔の腰のあたりに顔が、小さな足は妻の顔を蹴りそうな位置にある。その向こうでは妻の由香がパジャマを大胆にはだけさせて寝ていて、その格好も子どものようだった。寝苦しい熱帯夜を乗り越え、心地よい朝の安眠のなかにある家族は見事に無防備な寝姿で、雄輔は一人で笑いそうになった。
(サッカー部の夏合宿みたいだな)
思い出したのは、高校生の頃の、真夏のサッカー部の合宿だった。全力で練習して、交代でご飯を準備して、飯を食べて風呂に入って、馬鹿話をして笑って、そして寝て。迎えた朝は、こんなふうにみんなひどい寝相で、誰かが誰かを蹴っていた。家族とは、あの夏合宿をずっとやっているようなもので、そう考えれば、ケンカをするのも当然。絆も強くなるわけだ。雄輔は何か幸せな発見をしたような気がして、今日もこの合宿を頑張ろうと思った。まさか一年後に、メンバーが二人も増えることになるとは思ってもみなかった。

「びっくりしないでね」(既読)
「どうした?」(既読)
「双子だって」(既読)
その日が妊婦健診だった由香からのラインで、おなかのなかの赤ちゃんが双子だと伝えられたときは、雄輔は仕事場で声が出るほど驚いた。
「うぉー、マジかー」
三人目の子ができたと思ったら、四人目も。想定を超える出来事にどう返事をしたらいいかわからず、由香に電話してみると、由香も頭が真っ白になっているようだった。
「どうしよう」
「どうしようも何も、びっくりした」
「二人同時に産むってどんな感じなんだろう。ちょっと大変かも。そしたら六人家族になるんだよ」
「六人だね」

不安を感じながらも、由香が状況を受け止めようとしているのを電話の声から感じて、雄輔も少しずつ気持ちを落ち着けた。
「すごいよ、二つの命を同時に授かるなんて。大丈夫。父ちゃんもさらに頑張るから」
「母ちゃんも頑張る」
もう「パパ」「ママ」より、大家族風に「父ちゃん」「母ちゃん」でいこうかと笑い合ったとき、雄輔も由香も急に胸がいっぱいになって涙が出た。

それからの数ケ月は、家族にとって激動の日々だった。
結婚してから住んでいる相模大野駅近くの今の賃貸マンションは、子どもが二人になってすでに狭く感じていた。ちょうどいい。この機会に引っ越そう。そう言って雄輔がまず一人で、由香のおなかが安定してきてからは家族四人全員で、週末は住まいを探しに回った。
駅からは少し離れても一戸建てを買うことにして、ネットで物件情報を調べては、不動産屋さんの車に乗せてもらって現地を見て回った。
「実は、妻のおなかに双子がいるんです」
「えっ、そうなんですか」
のんびりと探していられない事情を不動産屋さんに正直に伝えると、不動産屋さんもより親身に物件情報を集めてくれた。

八件目に、国道十六号線を北上したエリアで中古の戸建ての家を内見したとき、初めて雄輔たちはしっくりくるものを感じた。築浅ではないけれど、その分、土地も建物も広い。六人家族がのびのび暮らせそうなイメージができた。日当たりもいい。小学校が近いようで、グラウンドで少年野球チームが練習をしている声が聞こえる。周囲には築四十年くらいの落ち着いた住宅街が広がっていて、通りがかったおばあさんが、あら可愛いわねえと、子どもたちに手を振ってくれた。
「ここにしよっか」
「そうしよっか」
「あたらしいおうちここにします!」
パパとママの会話に割り込んできた長女に、みんなが笑った。ベビーカーのなかから長男も笑った。
「あ、今、動いた」
由香がおなかに手を当てて言った。

それまでの人生で最大の買い物。不動産屋さんでたくさんの契約書類にハンコを押しながら、雄輔と由香はじわじわと家計を支える覚悟のようなものが決まっていく感じがあった。自分たちなりにDIYでリフォームをして、今風にかっこよくしていこうと思ったが、まずは中古車を買うのが先か。やっぱり大きめのクルマじゃないとね。エアコンも新しくしないと。けっこうお金はかかるね。ま、少しずつやっていこうか……。
そんなとき、察したかのように雄輔の実家の父から電話があり、多くはないが、こういうときのために貯めておいたものだからと資金を協力してくれることになった。電話口でありがとうと言いながら、また雄輔は涙が出た。

二人の小さな子と妊婦のおなかの安全を確保しながらの引っ越し準備。仕事仲間にも手伝ってもらいながら、レンタカーのトラックを自分で運転して運んだ荷物。
中古のミニバン探しが思ったよりも難航して、でも、最終的には望んでいた以上のいいものが見つかったり。
おなかのなかの命を中心に大勢が駆け回ったことなんか何も知らずに、初夏のある日、南区の産婦人科病院で双子の赤ちゃんが誕生。元気な二人の男の子だった。
一週間後、手伝いに来てくれたおばあちゃんと一緒に、赤ちゃん二人と由香が新しい家にやって来た。
「赤ちゃん、来たー!」
長女の声が響き渡って、それを聞いた両隣りの人も家の前に出て手を振って迎えてくれた。
「ただいま、父ちゃん」
「おかえり、母ちゃん」
赤ちゃんを一人ずつ抱っこしたまま、雄輔と由香はキスをした。

伊勢原

なにして遊ぼう

退院したばかりの父の様子を見に、秀樹は東京からクルマで一人、伊勢原の実家に帰った。肺の手術はうまくいったとは聞いていたが、もう全くなんともないと畑仕事を始めている父を自分の目で見て、秀樹は少しホッとした。
「親父、大丈夫そうだね。安心した」
「ちょっと強がってるところはあるけどねえ。でも悪性のものじゃないから心配しなくていいよ」
そう言う母もだいぶ年をとった。二人ともまだ介護は必要ではないけれど、ちょっと様子を気にしながら暮らしたほうがいいかもしれない。母とお茶を飲みながら秀樹は感じた。その日はいい天気で、野鳥の声もよく聞こえて、秀樹は久しぶりに実家の近くを歩いてみることにした。

子どもの頃はなかった住宅街ができていたりはするが、田んぼや畑も残っている。そんな風景のなかを、昔、通っていた中学校のほうに向かって歩いていると、もうすぐ五十歳になる自分が、中身は中学生時代と何も変わっていないような気がした。
(もし仕事場を兼ねた小さな拠点をこっちに持って、週二、三日をこっちで過ごすなんてどうだろう。家族みんなで東京から移住、なんて考え出すと大変だから、まずは自分の隠れ家みたいな場所をつくる。焚き火しながら酒を飲んだりして。あ、ありかもな)
歩きながら秀樹は、そんな暮らし方を想像してみた。
父と母の心配がきっかけだったが、見上げれば高層ビルではなく、広がる空と緑の山々があるこの土地が、とても気持ちよかったからだった。
(なんだろうな、この多幸感は)

ふと通り過ぎたハイエースが急に停まる音がして、秀樹が振り返ってみると、窓から作業服姿の男性が顔を出して、こっちを見ていた。
「あのう、もしかして、ヒデ、じゃない、か?」
「え、もしかして、カズ、なのか?」
小中学校時代の同級生の和彦は、確か親父さんの設備工事の会社を継いでいたはず。そんな記憶をたどりながら秀樹が近づいてみると、ハイエースには見覚えのある工事会社の名前が書かれている。
「やっぱりカズだ」
「そうだよ。やっぱりヒデじゃん。久しぶり!」
三十年ぶりくらいの再会は、髪の色も量も変わっているお互いをおそるおそる確かめたところで、ホッとするように再会を喜び合った。何をどこから話したらいいかわからないほどだったが、まずは秀樹が、手術した父の様子を見に帰ってきたこと、今は新宿区のマンションで家族三人で暮らしていること、小説や旅のエッセーを書く仕事をしていることなどを話した。

「ヒデ、いま時間あるなら、うちの事務所で少し話さないか?」
「いいよ。散歩してたくらいだから、ひまだし」
「じゃあ、乗りなよ」
秀樹もハイエースの助手席に乗って、今度は和彦の近況を聞いた。子どもの小学校のPTA会長を断ることができずになんとか二年間やった話、それで入学式や卒業式でのあいさつに苦労した話、商工会のつながりで街起こしのイベントも手伝っていて今日はその帰りだということ、最近の伊勢原は大山観光も盛り上がってきていて、神社に神主さんがカフェをつくったり、こま参道に新しいお店や宿もできている話。空き家のリノベーションの設備工事もよくやる話。和彦の話題はどれも伊勢原の土地に根差していて、なんだかそれがとてもいい感じだなと秀樹は思った。
「実はさっき、こっちに仕事場を持とうかな、なんて、歩きながら妄想してたんだ」
「え、それ、大賛成。だったらヒデにぴったりの場所がある。そこに行こう」
「今から?」
「すぐそこだから」

少し走って和彦のクルマが止まったのは、県道から少し入ったところにある眺めのいい空き地だった。建設会社の資材置き場だったこの土地を自分が買うことにして、ここに新しい事務所兼シェアスペースをつくろうと思っていると和彦は言った。
「できればカフェも併設して、大山帰りの人の休息の場所にできないかなと」
「そんなこと準備してたのか。すごいな」
「けっこうかっこいい建物にするからさ。一部屋使って、ここでヒデも仕事すればいい」
まるで中学生が一緒に遊ぼうと言うようにまっすぐに、こんなに久しぶりの自分を和彦が誘ってくれるのが、秀樹はうれしかった。

「たまに俺、焚き火してもいいかな」
「何か焼きながら飲むか」
「いいね」
「よし、決まり。ヒデが帰ってくるって聞いたら、みんな喜ぶと思うよ」
「さっき再会したばっかりで展開が早すぎない?」
「何かが始まるときはこんなものだろ」
まだ何もない場所に立って、二人は日が落ちるまで大山のほうを眺めながらずっと話していた。この同級生の小さな再会が、その後、この土地の未来をどんどん豊かにしていくことを、まだ誰も知らない。この二人自身も知らない。

経 堂

ふたりで ここで

商店街を歩き始めたとき、ちひろは、ここだと思った。学生時代から付き合っていた一つ下の彼が、もうすぐ学校を卒業して、山形から上京してくる。一年早く東京に出て、文具メーカーの商品開発部で働くちひろが、ふたりで一緒に暮らせる賃貸を探して、不動産屋さんと物件を見に来たのだった。

「きょうどう」って読むんだ。いいですね。この街」

去年の春、自分が上京してきたときは、東京も近郊も、どこがどんな街なのか何もわからなかった。とりあえず家賃だけを基準に決めた近郊の街でのひとり暮らしはどうにも味気なく、会社帰りにお惣菜を買ってひとり真っ暗な部屋に帰ると、山形に帰りたくて辛くなる日もあった。山形のおばあちゃんが、畑で採れた大きなスイカに応援メッセージを書いて送ってくれたときは、食べながら涙がぼろぼろ流れた。

そんなひとりのときとは違って、ふたりで暮らす街を選ぶのは、無意識に、ふたり分の目で街を見つめていた。学生街の雰囲気もあって、お年寄りものんびり歩いている。田舎から出てきたばかりの彼も、この街の雰囲気には安心するはず。経堂で二カ所の賃貸マンションを内見して、その一つ目に決めると、ちひろはすぐに引っ越して、先に生活の準備をすることにした。
「ここのオムライスうまい」(送信)
「バーで会ったご夫婦と仲良くなったよ」(送信)
「カフェのマスターも東北出身だった」(送信)
経堂で先に暮らし始めたちひろの街開拓が始まった。見つけたお店や出会った人の紹介を時々、彼にラインで送りながら、やっぱり直感は正しかったとちひろは思った。街というものに心があるとしたら、この街は人を受け入れるオープンな心がある。

「もうすぐ経堂につくよ」
いよいよ彼が上京する日。お昼過ぎに、彼からラインのメッセージが届いたのを見ると、ちひろは駅に向かって飛び出した。

「改札を出たところにいるよ」
「どこ? あ、いた」
新しいふたりの物語が、今、この街に加わった。

新百合ケ丘

道ばたの演奏会

職場で知り合って結婚した夫の実家の近く、川崎市麻生区、駅で言うと新百合ケ丘駅から徒歩十五分のところに美穂たち夫婦がマンションを買ったのは三年前。すぐに子どもができるだろうと思っていたけれど、思うようには授からず、お互いに都心での仕事も忙しかったから、シンユリの街も、眠りに帰るだけのベッドタウン状態だった。

ようやく去年、美穂のお腹に命が宿り、長男が誕生した。子どもが大きくなるまでは、仕事は夫に頑張ってもらうことにして、美穂は子育てに専念することにしたのだった。ベビーカーを押しながら、平日の日中を小さな息子と過ごすようになって、美穂にはこの街の見え方が大きく変わった。

個人経営の小さなお菓子屋さんやレストラン。バイオリンの修理工房。公園の花壇の手入れをしている地域のボランティアさん。住宅街の中に残る畑で野菜をつくる農家さん。「わあ赤ちゃん可愛い」と、ベビーカーをのぞきこむ小学生たち。あちこちで開かれている子どもたち向けのアートのワークショップ。通勤のときの急ぎ足や、夫と車で走っているだけでは見えていなかったものがこの街にはたくさんあった。
「今さらだけど、私たちいいところに住んでたんだね」
息子と一緒に、美穂も、周りの世界を再発見した。

「うわーーーん、うわーーーん、ぐわーーーん」
しかし、子育ては平穏な日々ばかりではなかった。駅前のスーパーに買い物に行った帰り道。美穂はたくさんの食材の入ったバッグを肩にかけ、空のベビーカーを押しながら、泣きながらやっと歩く息子の手を引いていた。
「雨が降ってきちゃうかもしれないよ。早くおうちに帰ろう」
すれ違う人が振り返るほど息子の泣き方が激しくなっていくのが辛くなり、美穂が無理に息子を抱きかかえようとしたとき、美穂の肩からバッグが落ち、ベビーカーもひっくり返った。息子の泣き声はさらに大きくなった。
「あー、もう……」
そんなママと子どもの様子に気づき、駆け寄ってきて、落ちたバッグから散らばったものを拾い集めてくれる何人かの人がいた。
「大丈夫よ。こういう時期ってどんな子にもあるの」
「うちの子の小さい頃を思い出すよなあ」
年配の夫婦が転がったジャガイモや玉ねぎを拾いながら、優しい言葉をかけてくれた。まだ泣いている息子を抱えて美穂は頭を下げながら、自分の目に涙が溜まってくるのを感じた。

その様子に気づいて、今度は四人の男女が近づいてきた。お揃いの衣装を着て、手には四人ともクラリネットを持っている。すぐそばの音楽大学の学生たちのようだった。
「ちょうど今、近くの保育園で演奏してきた帰りなんです。子どもたちに人気の曲を一曲、やってもいいですか」
ひとりの元気な女の子がそう言って、他のメンバーに目で合図すると、四人がクラリネットを構えた。呼吸を合わせる少しの間があって、次の瞬間、軽快なメロディーが四人からあふれ出した。人気アニメのテーマソングの楽しいクラリネット四重奏に、息子も身を乗り出した。たちまち歩道はコンサート会場になった。

三分ほどの演奏が終わった。道ばたの演奏家たちが会釈して、微笑みながら手を振ると、まだ涙で濡れている息子と、その母の顔に笑顔が戻った。街の人たちの拍手がみんなを包んだ。

新百合ケ丘

道ばたの演奏会

職場で知り合って結婚した夫の実家の近く、川崎市麻生区、駅で言うと新百合ケ丘駅から徒歩十五分のところに美穂たち夫婦がマンションを買ったのは三年前。すぐに子どもができるだろうと思っていたけれど、思うようには授からず、お互いに都心での仕事も忙しかったから、シンユリの街も、眠りに帰るだけのベッドタウン状態だった。

ようやく去年、美穂のお腹に命が宿り、長男が誕生した。子どもが大きくなるまでは、仕事は夫に頑張ってもらうことにして、美穂は子育てに専念することにしたのだった。ベビーカーを押しながら、平日の日中を小さな息子と過ごすようになって、美穂にはこの街の見え方が大きく変わった。

個人経営の小さなお菓子屋さんやレストラン。バイオリンの修理工房。公園の花壇の手入れをしている地域のボランティアさん。住宅街の中に残る畑で野菜をつくる農家さん。「わあ赤ちゃん可愛い」と、ベビーカーをのぞきこむ小学生たち。あちこちで開かれている子どもたち向けのアートのワークショップ。通勤のときの急ぎ足や、夫と車で走っているだけでは見えていなかったものがこの街にはたくさんあった。
「今さらだけど、私たちいいところに住んでたんだね」
息子と一緒に、美穂も、周りの世界を再発見した。

「うわーーーん、うわーーーん、ぐわーーーん」
しかし、子育ては平穏な日々ばかりではなかった。駅前のスーパーに買い物に行った帰り道。美穂はたくさんの食材の入ったバッグを肩にかけ、空のベビーカーを押しながら、泣きながらやっと歩く息子の手を引いていた。
「雨が降ってきちゃうかもしれないよ。早くおうちに帰ろう」
すれ違う人が振り返るほど息子の泣き方が激しくなっていくのが辛くなり、美穂が無理に息子を抱きかかえようとしたとき、美穂の肩からバッグが落ち、ベビーカーもひっくり返った。息子の泣き声はさらに大きくなった。
「あー、もう……」
そんなママと子どもの様子に気づき、駆け寄ってきて、落ちたバッグから散らばったものを拾い集めてくれる何人かの人がいた。
「大丈夫よ。こういう時期ってどんな子にもあるの」
「うちの子の小さい頃を思い出すよなあ」
年配の夫婦が転がったジャガイモや玉ねぎを拾いながら、優しい言葉をかけてくれた。まだ泣いている息子を抱えて美穂は頭を下げながら、自分の目に涙が溜まってくるのを感じた。

その様子に気づいて、今度は四人の男女が近づいてきた。お揃いの衣装を着て、手には四人ともクラリネットを持っている。すぐそばの音楽大学の学生たちのようだった。
「ちょうど今、近くの保育園で演奏してきた帰りなんです。子どもたちに人気の曲を一曲、やってもいいですか」
ひとりの元気な女の子がそう言って、他のメンバーに目で合図すると、四人がクラリネットを構えた。呼吸を合わせる少しの間があって、次の瞬間、軽快なメロディーが四人からあふれ出した。人気アニメのテーマソングの楽しいクラリネット四重奏に、息子も身を乗り出した。たちまち歩道はコンサート会場になった。

三分ほどの演奏が終わった。道ばたの演奏家たちが会釈して、微笑みながら手を振ると、まだ涙で濡れている息子と、その母の顔に笑顔が戻った。街の人たちの拍手がみんなを包んだ。

町 田

リスのお告げ

「ここほんとに東京?」
「そう。東京だよ」
「ねえ、すごくいっぱいリスがいるんだけど」
「ね。言ったでしょ」

町田で生まれ育った哲也にとっては、昔、子どもの頃に来た思い出の場所、町田リス園。

二百匹のリスたちが放し飼いされていて、来場者が餌をあげながら直接触れ合える、町田の子なら知らない子はいないと思われる基本のレジャースポットだ。
まさか四十歳になって、ここに彼女を連れて来ることになるとは。哲也は不思議な気持ちだった。

友人の紹介で知り合った泰子を、哲也は好きになった。
泰子も同い年で独身だった。お互いにいろんな恋愛も経験したが、結婚ということには至らずにここまで来ていた。哲也は三十五歳のときに起業し、自分の会社の経営に夢中だったし、泰子は大手企業の広報担当として忙しく過ごしてきた。それぞれ、結婚したくないわけではなかったが、しなければならないというものでもなかった。そんなふたりが知り合って、スポーツ観戦という共通の趣味を仲間で楽しむうちに、時々、ふたりでも会うようになっていた。

「そういえば、ゼルビア※の試合を観に行ったとき、森の中のリス園の前を通ったよね。あそこに行ってみようよ」
※町田市を本拠地とするサッカークラブ、 FC町田ゼルビア。

リス園デートは泰子が言い出した。哲也としては少し渋々だったが、来てみれば、大人の女性のグループや、二十代のカップルもいて、意外と居心地は良く、ホッとした。
ひまわりの種を買い、園で貸してもらえる手袋をつけて種を手のひらにのせると、すぐに数匹のリスが素早くふたりに駆け寄ってきた。それだけで大騒ぎしている泰子を写真に撮ったり。泰子の膝にリスがのるように誘導したり。

童心に帰ってリスと戯れながら、ふたりは思っていた以上に楽しんだ。もし自分たちが小学生の頃に一緒に来たとしても、おそらくこんなふうだっただろうなと哲也は思った。

その夜は、町田駅前の哲也の行きつけの居酒屋でふたりは食事をした。町田のサッカー好きが集まるお店で、その日も、哲也もよく知るメンバーがだんだん集まってきて、泰子も紹介して一緒に話した。地元チーム愛の強い面々に引くかと思いきや、泰子はすっかり溶け込んで、チームの今後の方向性を語り合っている様子は昔からの仲間のようだった。

熱く続いているサッカー談義を途切れさせないように挨拶をして、夜十時頃、ふたりは店を出た。
「町田っておもしろい街だね」
泰子が一日を振り返るように言った。歩きながら哲也は、リス園で遊んでいたときの泰子が小学生に思えたことを伝えると、泰子は笑って、哲也のほうが小二くらいだったと言い返した。

哲也は少し真面目な顔で、昼間、自分の肩にのってきたリスがこの女性と一緒になれと、耳元でささやいたことを泰子に伝えた。
「リスもそう言うので、結婚しませんか」
泰子が「小二か」と突っ込んで、哲也の手を握った。

藤 沢

根ざしなおす

あのとき、あんなに心配したのは、なんだったんだろう。
五月晴れの休日の朝。自宅のウッドデッキでコーヒーを一人で飲みながら、圭介はふと思った。半分開いているリビングの窓からまだパジャマ姿の六歳と四歳の息子たちも顔を出した。
「ママは海?」
「そうだよー」

圭介が思い出していたのは、三年前、ここに越してくるときのことだ。
品川のマンションで妻とふたりの子と暮らしていた圭介が、藤沢の実家に引っ越すことを考え始めたのは、父からの連絡がきっかけだった。
「お前がこの家に住まないとしたら、この家を売りに出そうと思うが、どうする」
聞けば、七十代になって足腰が弱ってきた母のことも考えて、父と母ふたりで高齢者専用のマンションに移り住むことに決めたと父は言った。
「ちょっと考えてみる。また連絡する」

そんな話から急に始まった藤沢移住の検討だったが、圭介は内心、ありかもしれないと受け止めていた。

藤沢なら都心に通勤もできる。四十代になって、仕事と人生のバランスを取りなおすときが来ているような気もしていた。
ただ、妻の和美がどう思うかが心配だった。彼女が嫌がったら無理だろうな。そんな心構えで、ある夜、風呂上がりの妻に切り出してみると、返ってきたのは意外な答えだった。

「いいじゃん。海のある暮らし。この子たちもよろこびそう」
「まあ、そうすぐに決めなくてもいいと思うんだけど……」
「平気だよ。そうしようよ」
「え?」
「引っ越すなら子どもたちが小学校に上がる前がいいし。ねえ、ソラ、カイ、藤沢のじいちゃんばあちゃんち、好き?」
妻と子どもたちは海で何をして遊ぶかで盛り上がり始めた。
逆に圭介が家族に背中を押されるように、トントン拍子で話が進み、圭介たちが実家を受け継ぐことになったのだった。

「中途半端に思い出の家具があったりすると良くない。なるべく圭介たちが一からやりたいようにやったらいい」
「そうね。和美さんも気にせずいろいろリフォームしていいのよ」
次のマンションでの暮らしの準備に気持ちを切り替えて、今まで使っていた家具もどんどんリサイクルショップに引き取ってもらう父と母の思い切りの良さに圭介は驚いた。
「お父さんもお母さんも、本当はとっておきたいものもいっぱいあるのに、私たちに気を遣ってそうしてくれてるんだと思うよ」
和美に言われて、圭介はそうかもしれないと思った。

父と母の引っ越しを手伝って、それから自分たち家族の引っ越しと、親族にとって大移動の一ヵ月を経て、圭介たちの藤沢での暮らしが始まった。
フローリングを張ったり、ウッドデッキを増築したり、どんどん自分たち仕様にリフォームを進められたのは、父と母が、この家をいったんリセットしてくれたおかげだと、圭介たちはあらためて感謝した。自分たちでDIYした柵に家族みんなで白いペンキを塗ったり、庭にドラセナの木を植えたりするうちに、圭介は家族と一緒に、もう一度、この土地に根ざしなおしていくような感じがした。

「あ、ママ、帰ってきた」
「ただいまー。ごめん、遅くなった。朝ごはんにしよっかー」

圭介と息子たちがウッドデッキでくつろいでいるところに、和美がサーフボードを抱えて海から帰ってきた。半年前にサーフィンを始めた和美は、朝5時から海に行く日も多い。そんな朝は圭介が子どもたちを引き受けていた。
「お昼はおじいちゃんおばあちゃんを呼んで庭でバーベキューだからねー。あとでお迎えに行くよー。パパは食材と炭の準備もよろしくね!」
サーフボードを洗いながら、家族全員にテキパキと今日一日の段取りを説明する和美の声がみんなの目を覚ますように明るく響き渡った。
この土地でいちばん花開いているのはこの人だなと、圭介が和美にスマホを向けると、和美は両手でピースした。

海老名

走れば ふるさと

「やっぱり置いてった。パパのうそつき」
小学校五年生のゆかこは、海老名の広々とした歩道を、市街地から西に向かって走っていた。ゆかこの見つめる先には、白いウェアと黒いパンツ、エメラルドグリーンのランニングシューズで決めて、軽快に走っていく父がいた。山道をトレイルランニングすることもある父の走りはとても身軽で、それがまたゆかこには悔しく思えた。

「一緒に走るって言ったのに」

相模川沿いの相模三川公園の土手に着くと、屈伸運動をして待っている父がいた。ゆかこの腕に出発前につけさせたスポーツウォッチを見ながら、いいタイムだと、父の一郎は嬉しそうに言った。ゆかこの不機嫌そうな顔に気づくと「離れても一緒に走ってたよ」と言って、相模川の流れのほうに目をやった。
「ほら、空と山と川が綺麗だ」

父の見つめるほうにゆかこも目を向けると、確かに、日曜日の午前の日差しを広々とした相模川がキラキラ反射していて、その先には街を囲むように丹沢の山の連なりが見え、その上には雄大な青空が広がっていた。

ゆかこたち家族は、半年ほど前に、カナダから海老名に引っ越してきた。グローバルメーカーに勤める父の海外赴任が終わり、帰国して住み始めたのがこの街だった。父の新しい勤務地と、母の実家のちょうど間くらいという理由でこの街を第一候補にし、不動産屋さんと一緒に家族で住まいを見てまわると、父と母はすぐに、ここにしようと決めた。家族で安心して過ごせる街だと感じたことと、空が大きいことが決め手だと言った。

「学校には慣れた?」
「まあまあ。ゆりちゃんも去年、アメリカから転校してきたんだって」
「友だちになれた?」
「昨日も一緒に遊んだよ」
「そうか。パパも日本での仕事にやっと慣れてきたよ」
近況を話しながら、ゆかこと父はアキレス腱を伸ばしたり、足首を回したりした。

「今度、あの山を走ろう」
父が指差す先には尖った山があった。
「置いていくからいやだ」
「まだゆかこには早いか。でも自然と一つになるのはいいよ」
そう言いながら、また走り出した父について、ゆかこも走り出した。

「自然と一つってどういうこと?」

相模川沿いを並んで走る父と娘を、羽の先の黄色い小鳥がさえずりながら眺めていた。

小田原

未来へのお返し

山本さんは小田原に住んで四十年になるらしい。
現役の頃は電気工事の仕事をしていたが、七十歳を過ぎた今は、仕事は引退し、週末は少年サッカーチームのサポートスタッフをしている。歴史の勉強も趣味らしく、時々、市の史料文化館で調べ物をしたり、小田原城のボランティアガイドをしたりしていると聞いたこともある。
ちょうど自分の父親と同い年くらいの山本さんのことを、サッカーチームでパパコーチを務めるリュウジは慕っていた。

「山本さん、いつもいちばんに来てライン引きをしていただいて、すみません」
「これくらいしか俺にできることはないからなあ」
「コーチたちにも早く来るように言っているんですが」
「大丈夫。俺は朝、早く目が覚めるんだよ。来る前に釣りもしてきたんだから」
日曜日の午前、河川敷のグラウンドでライン引きを押しながら山本さんはリュウジに言った。山本さんの引くラインは、なんの目印がなくてもいつもまっすぐで、丁寧な仕事をする工事士だったことが想像された。
練習中も子どもたちに声をかけて、練習を見守ってくれた。早朝の釣りが大漁だったときは、練習後のコーチたちにサバを配ってくれたりもした。

ある大会が一段落したとき、監督やコーチたちの飲み会で、リュウジは山本さんの隣に座って、いろんな質問をして、昔の話を聞いた。
子どもの頃は教師になりたかったけれど、両親が早くに亡くなって、叔父に育てられたこと。だから高校を出てすぐに働いたこと。少年サッカーチームには創設の頃から関わったこと。山本さんの息子がプレーしていた頃は、とても弱くて、最初の一年は一勝もできなかったこと。初めての一勝のときは、優勝したみたいにみんなで喜んだこと。山本さんは昨日のことのように語った。

子どもたちやチームのために動いてくれる山本さんを尊敬していることをリュウジが伝えると、自分が今まで人にずいぶんお世話になってきたから、若い人たちにそれを返していきたいのだと山本さんは言った。年寄りにバックパスは要らない、未来にパスしていけばいいと笑った。もし山本さんが教師になっていたら、いい先生だっただろうなとリュウジは想像した。

三月になり、今年も六年生がチームを卒業するときが来た。最後の練習の後、グラウンドの脇で、六年生に記念品を贈る小さな卒業セレモニーが行われた。記念品を受け取った六年生が一人ひとり、監督やコーチ、親へのお礼の言葉を言うたび、成長した六年生の姿に目を見張るとともに、まだ低学年だった頃の面影も見えて、リュウジにはこみ上げるものがあった。
「おめでとう。またチームに教えに来てくれよ」
山本さんも目を潤ませながら、一人ひとりに声をかけ、グラウンドから送り出していた。
次の世代へ次の世代へパスを送りながら、チームは未来をつくっていくのかもしれない。そもそも人の歴史とはそうやってできているのかもしれない。
グラウンドからの帰り道、山本さんが言っていたことがリュウジは急に腑に落ちた。
小田原の街が、サッカーをしているように見えた。