千歳船橋
ちとふなことこと
たまねぎの向きを変えながら、菜月が包丁をザクザクと動かすと、透明なサイコロのようになったたまねぎがまな板の上に転がった。続いてにんじん、ズッキーニ、セロリ、じゃがいもが、菜月の指先で動かされていくうちに、小さな正方形や三角形、立方体にカットされていく。器用ではないが、やり始めると丁寧にやらないと気がすまない菜月の性格が、野菜の切り方に表れていた。にんにくはみじん切り、キャベツとほうれん草はざく切り、トマトは角切り。短く折られたパスタ、コロコロしたゆでひよこ豆、ピンク色の小さな正方形にカットされたベーコンも加わって、ミネストローネの材料がキッチンをカラフルに彩った。鍋に入れる前の鮮やかさも、菜月がミネストローネを好きな理由だった。
菜月がスープづくりをするようになったのは、今年の夏の終わり頃からだ。気温や気圧の激しい変化のせいか、夏の疲れからか、二カ月ほど体調の良くない日が増えていた。原因はよくわからない。あるとき、美容院でそんな話をしたときに、スタイリストが菜月にすすめてくれたのがスープづくりだった。
「人は自然のものにさわったほうがいいって言いますよね。美容師はこうやってお客さんの髪にふれさせてもらってるけれど、デジタルなものばかりさわっていると、体が自然の手ざわりを求めるらしいです」
「たしかに。私、データしかさわってないです」
「データってさわるものなんですか」
「手や指ではさわってないですけどね。業界ではそう言います」
「料理なんていいかもしれないですよ。野菜を洗ったり皮をむいたりカットしたり。ミネストローネなんていいかも、簡単で、野菜の栄養たっぷりで」
「あ、それかも」
髪をとかしてもらいながら聞いたその提案は、菜月にとってピンとくるものがあって、これは本当にやってみようと思ったのだった。人の髪に自然を感じている美容師の感覚もおもしろいと思った。そうか私は自然なんだなと、じわじわと嬉しく感じた。
静かな住宅街にある美容院を出ると、菜月はそのまま材料を買おうと思い立ち、マンションにまっすぐ帰らずに千歳船橋駅前の商店街に向かった。通勤のときに前を通るだけで、一度も買い物をしたことのなかった八百屋さんが見えてきた。すこし勇気を出して足を踏み入れると、広くはない店舗に思っていた以上に多くの野菜があって、どれもいい色をしている。スマホで調べたミネストローネの材料の野菜はすべてある。しかも価格はぐんと安く、九十円といった値札も多い。野菜をカゴに集めながら、菜月が「ミネストローネをつくろうと思いまして」と店主に言うと、「いいですね」と言って、少しにんにくを入れることをすすめてくれたり、この店にはないオリーブオイルやブイヨンを売っている近くのお店まで教えてくれた。
「こんなすごい八百屋さんだったとは。今まで通り過ぎていて後悔してます」
「ははは。おいしいミネストローネを」
その日の夜にはもう、菜月はレシピサイトを参考にミネストローネをつくってみた。確かに材料を刻んで煮込むだけのつくり方は手軽で、それでいて気持ちがすっきりした。食べてみると、たくさんの野菜の味と食感がにぎやかで楽しい。パスタも細かく刻んで入れたので、それだけでお腹もいっぱいになった。「うん。これだ」。最近の自分に足りていなかったものを見つけた感じがあった。こうして菜月のスープ習慣は始まったのだった。大きめの鍋で多めにつくって、少しずつ三日くらいで食べるリズムができた。
週末、スープの材料を買いに行くようになると、千歳船橋駅近辺の商店のすごさを菜月は再発見した。小さな商店たちは八百屋さん以外にも、お肉、豆腐など、それぞれの分野の専門店だった。お肉屋さんでは近所のおばあさんが「明日、孫たちが来るのよ」と言うだけで、そこからまるで世間話のようにメニューや材料の提案が店主から始まる。そして「そうね。生姜焼きにしようかしらね」とおばあさんが言い、お店おすすめのお肉を買っていく。そんな光景をよく目にして、豊かな買い物だなあと菜月は思った。スープ用の鶏肉を買いにいったお肉屋さんで、揚げたてのコロッケを買うことも菜月はよくあった。スープを煮込んでいる間につまみ食いするのにぴったりだった。
ブロッコリーと鶏むね肉を使ったポタージュ、厚揚げと鶏そぼろのあんかけスープ、生姜を効かせたミネストローネなど、さまざまに素材を混ぜ合わせられるスープの自由さに菜月ははまって、スープのレパートリーは少しずつ増えていった。思い切ってフランス製の鋳物ホーロー鍋を買ってみると、いい鍋も味わいを増してくれた。目まいと体の重さから会社を休んだり、リモートワークで乗り切る日もあったが、スープづくりを一カ月ほど続けてみるうちに、体調不良の大波は少しずつ引いていった。スープジャーに入れてオフィスにも持っていくと、同じような悩みを持つ後輩たちからつくり方を聞かれて、菜月のスープづくりは会社でも話題になった。
「おいしかった。ごちそうさま。そろそろ帰らなきゃ」
「スープの味も忘れるほど、いっぱいしゃべったね」
「だね」
「駅まで送ろうかな」
「一人で帰れるって」
「いいよ。私も少し歩きたいから」
この日は菜月の体調を心配して、会社の同期のあずさが 菜月のマンションに遊びに来てくれたのだった。ミネストローネランチ会を開くと、話ははずんであっという間に夕方になった。菜月の元気さを感じられて、あずさもホッとしたようだった。
夕暮れの商店街を二人で歩いて千歳船橋駅に近づくと、いくつものテントが見えて、にぎわっている声が聞こえてきた。ちょうど駅前でナイトマーケットが開かれている日だった。近隣の飲食店が出店しているテントからはいいにおいがして、二人はもう一杯ここで飲むことにした。
菜月がクラフトビールを、あずさが焼き鳥をそれぞれ二人分買ってきて、駅前広場での二次会が始まった。
「じゃあ、菜月の体調も良くなってきたということで、カンパイ!」
「ありがとう。カンパイ!」
空のほうから電車の走っていく音がした。秋の風が広場をめぐり、菜月とあずさの髪を揺らした。ちとふなのまちが、ことこと、ゆらゆら、混ざり合っていた。