あなたの生き方を 教えてください。

生きるための仕事から、
使命のための仕事になった。

坪井 妙子2014年入社(新百合ヶ丘店)

食べていかなきゃ いけなかった。

一番初めの就職先は、小さな広告デザイン会社でした。大学で少しだけグラフィックを学んでいて、スキルをすぐに活かせたからです。好きだとか、やりがいだとかはほぼ関係ない、生きるための就職でした。しばらくして辞めてしまって、派遣社員になったところ、派遣先がたまたま不動産鑑定業をしていたんです。不動産って面白い、とその時初めて思いました。運用すれば利益になる即物的な面もありつつ、暮らす人や文化ごとに個性も宿るもの。世界中、人がいるあらゆる場所に存在するのも魅力でした。
宅建をとり、投資用ワンルームの営業会社に入ってみました。テレアポ一日数百件、相手が誰かは知りません。一軒一軒の不動産も、利益になるかだけを見る。わかった上で入ったし、資産運用の大切さもよく知ってはいたけれど、自分が本当にやりたいことは、人や建物の個性に落ち着いて向き合うことだと遅まきながら気づきました。だったら次は、歴史があって、地域に根付いている会社?鉄道系はどうだろう?細い糸をたぐるように、私は小田急不動産に辿り着きました。

仲介とは、 人生の橋渡し

予想は当たり、落ち着いて一つひとつの仕事に向き合える環境が待っていました。入社して5年間は賃貸を経験し、その後自ら希望して売買仲介に異動しました。賃貸は、テンポが良くて活気があり、世界観はポップな感じ。でも年齢を重ねるつれ、さらに時間をかけてお客様と深いお付き合いがしてみたくなり、ならば舞台は売買仲介だと思ったんです。
異動してみてわかったのは、人生の岐路に生じる「家の売買」という出来事を前に、ほとんどのお客様は、迷っているし、困っているということです。私の仕事はそこに立ち合い、お客様が新しいステージに移っていくのを誠心誠意手伝うことだと少しずつ理解しました。上司にはよく、「御用聞きにはなるんじゃないよ」と言われます。相手の立場に立てばこそ、プロの知見からお客様に提案し、耳障りの悪い話も誠実に伝えなさいと。上司の言葉を意識しながら一生懸命働くうちに、少しずつ、「あなただから」と信頼されるようになりました。そしてある日、ひとつのユニークな出会いを果たします。

ピンチを救った、 あの日の自分

そのお客様がおっしゃるには、「コンペをする」ということでした。ご高齢のお母様が施設に入られたのを機に、お母様の不動産を処分する。最も信頼できる会社に任せたいので、各社プレゼンを頼んでいるとご説明を受けました。
初めての経験でした。プレゼンだけで、当社の魅力は伝えきれるか。随分頭を捻りましたが、結果として、私はコンペに勝ちました。勝因をお教えしましょう。この会社で叩き込まれた徹底的な顧客目線と、叩き起こしたグラフィックスキルの融合です!お忙しいお客様がいかに直感理解できるか、絵や図を駆使して作り込んだ資料が心に響いたのです。「なるほど、寄り添ってくれるじゃないか」とお客様に言われました。
売却プロセスそのものはコロナ禍の中で行われ、お母様ご本人とは常にリモート面談でした。離れていても伝わるように、身振り手振りを交えながら声はいつも大きめに。最後は「あなたを信じて託します」とお母様にも言っていただき、新百合ヶ丘の古い貴重な写真集まで頂戴しました。そちらはいま大切に店舗に置かれ、ご来店の皆さんに閲覧していただいています。

どんな迷いも困難も、 幸せへの伏線であれ

当社の社員になってから、休日によくバスに乗るようになりました。車だとどうしてもハンドルに気を取られて、街のことがよくわからない。バスなら景色をじっくり楽しめるし、「この停留所からこんなに人が乗るんだ!」という意外な発見もあります。降りた場所では美味しい店を開拓したり、ただウロウロ歩いたりと、街への興味は尽きません。私自身が街を愛していなければ、お客様へのご提案もきっと心に響かないし、本音だって引き出せない。街探索は、今のライフワークのひとつです。
二十歳の頃の自分にとって、グラフィックは「お金になる」スキルでした。働くのは、今日も明日もご飯を食べるためでした。今だって、そうじゃないとは言いません。だけど紆余曲折して当社に来てから、私のスキルや経験は、お客様の人生のために活かせるものへと変わりました。仕事とは、使命感で進めるものになりました。
売買仲介に来るお客様は、迷っていて、困っています。だから寄り添い、力になります。私だって散々迷い、困りながら、生きてきたんですからね。